真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

某CMへ願いを込めて

 

 

 

 

「分かる。話す。身ーにつくっ。」

 

 

元塾講師の端くれとしては「素晴らしくキャッチーだな」と感じ入りつつ、

同時に色々な考えもむくむくと浮かんでしまうフレーズである。

 

 

注)筆者には某個別指導塾(※このCMの塾ではない)で5年、

  集団指導形態の塾で2年、講師をしていた 過去がある。

 

 

上記のフレーズを提唱している某塾は当然のことながら、

「分かりさえすれば話せるし、話せたら身につく」

という強い信念を持っている訳である。

 

 

確かに…

 

 

…と唸りつつ、どうにもこうにも何かがひん曲がっている僕のような人間は、

この「分かる」「話す」「身につく」の3要素をそれぞれ個別に分解して

考えてみた際にどうも腑に落ちない感覚に悩まされて仕方がない。

 

 

というのも、まず大前提として「講師」と呼ばれる人間の大部分は、

「分かる」という実感を持たせるプロだからだ。

 

 

これを自覚した上で、生徒との合意形成と時間を丁寧に積み重ねながら

「身につく」まで責任を持つことができるか否かが、

(このCMを打っているような個別指導塾の形態においては特に)

講師としての力量と生徒の今後を左右する、とも言うことができるだろう。

 

 

つまり、生徒が「分かる」という場所までたどり着くことは大前提であり、

(これができないようであればこの時点で「講師」としては退場モノだ)

結局の問題はいかに「身につく」という場所まで生徒がたどり着けるかである。

 

 

しかも「身についた」という実感がどのような方法や場面で得られるかは

人間によって千差万別なものだから、もっと言うならば

「身についた」という実感を得られる方法を生徒ごとに一緒に考える必要がある。

 

 

・・・・・・・ 

 

 

「分かる」ことができれば「話す」ことができる−

これは確かに間違ってはいないだろう。

 

 

しかし、「身につく」実感を得るための方法は本当に「話す」一択なのか。

 

 

 

まさかとは思いつつ、

 

・生徒の実感をなおざりにして

 「話す」ことができたからこの子は「身についた」−

 そうだよ、キミは今「話せた」から「身についた」んだよ−

 ・その後もしその生徒が学習した内容を忘れてしまったとしても、

 私たちは一度は「身につく」ところまでコミットはした−

 そうだよ、だから今忘れているのはキミの責任だよ−

 

 

 このような論理を展開しないことを切に願いたい。

 

  

CMのキャッチーなフレーズで、この塾の方針や考えに対して

一定数の保護者と中高生はまさに「分かる」実感を得ているだろう。

 

 

塾としての力量と生徒の今後は如何に。