真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

それは本当に「課題」なのか?

 

 

 

告白しよう。

 

 

僕は喫煙者である。

メディアや某自治体の知事から迫害と弾圧を受けている「ホタル族」の残党である。

 

 

喫煙歴もかなり長く、

量も昔と比べると随分減ったとは言え、今でも決して少ないとは言い難い。

20代前半までは平均して1日2箱を吸い込んでいたし、

特に夜を徹して酒盛りや麻雀をする時は凄まじく、平気で3-4箱は消えていた。

(こうなると最早「ヘビー」を超えた「チェーンスモーカー」である。)

 

 

今は平均して1日1箱は行かない程度だが、そんな今でも

飲みに行った先で常連の仲間達と楽しく盛り上がっている間に1箱以上は空くし、

読書をしたり、文字を書いたりする間も欠かせないパートナーとなっている。

 

 

そもそも煙草の本数を減らしたのも決して、

「健康面や経済面に課題を感じた」という類の理由からではない。

あまりにも立て続けにバカバカと吸い続けているうちに、

「俺、何のために煙草吸ってたんやっけ…?」

という原点をすっかり忘れている自分の愚かさに気付いたからである。

 

 

僕にとっての「原点」とは、

①煙草の美味しさをじっくりと味わいながら一息つくため

②楽しい時間(酒席・読書・文字書きetc...)に①を上乗せするため

という2点だ。

 

 

この原点への立ち返りを目指した結果として、

無駄吸いして分散させてしまっていた煙草1本ごとの価値を今一度濃縮させるために

いわば「攻めの削減」をしたと表現できるだろう。

 

 

それ程に、煙草という嗜好品を全力で嗜好している。

 

 

 

 

 

しかし昨今の世の中である。

 

 

 

 

 

特に某自治体の知事に至っては

「あなたの前世は肺だったのか?」

と思わず聞きたくなるレベルで喫煙環境を一掃しようとしている。


新条例の方針は「飲食店も原則禁煙」だとか。さながらゴキブリ駆除の様相だ。

(再度念押ししておくが、我々はケツが煌めくホタルである。

まぁパッと見のフォルムは似ていなくもないが…。)

 

 

まぁ個人的に思う部分は多々あるものの今は一旦さて置き、

それより僕が毎回色々と考えさせられるのは、日常生活の中で受ける質問に対してだ。

 

 

おそらく喫煙者はこれに準じた内容を一度は尋ねられたことがあるだろうし、

非喫煙者は一度は喫煙者に対して尋ねたことがあるだろう。

 

 

 

 

「何で煙草やめないの?」と。

 

 

 

 

まず前提を先に述べておくと、僕はこの質問自体に何も不満は抱いていない。

むしろ場面によっては必然の質問でさえあるとも感じる。

 

 

その「必然の場面」とは、例えば

喫煙者側が「禁煙したいと思っている」という意思表示をしながら

しみじみと遠い目で煙草を吸い込んでいる場面のことだ。

 

 

しかし、相手が僕のようなヤニフェチだとしたら話は変わる。

 

 

何故なら、こちらはそもそも

「禁煙したい」という意思を持ち合わせていないからだ。

 

 

実際に聞かれた場面でも僕はその旨を返答しているが、

それを受けて2回に1回はこのような言葉を頂戴する。

 

 

 

 

「でも条例もあるし、煙草も値上がりするし…」

 

 

 

 

そこで「うーん確かに…」という発言をする喫煙者もいるかもしれないし、

そうなると例えば「じゃあどうしたら禁煙できるか?」という課題について

一緒に考える時間に発展しうる、非常に意義のある提起だ。

 

 

ただ、喫煙を続ける方針を採っている、つまり、

「喫煙」という行為をそもそも「課題」として捉えていない僕にとっては

「条例」や「値上がり」も課題設定の材料にはなり得ない

(無論、「安心して喫煙を続ける上の障壁」として捉えられるものではあるが。)

 

 

 

 

上記の喫煙云々は完全に個人的な事例に過ぎないが、他にも

当事者が「課題」と捉えていない事象に対して

外部が勝手に課題設定をするというケースがある

ように感じるのは僕だけだろうか。

 

 

 

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例の如く「課題」という言葉の意味を某辞書で参照してみる。

 

 

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①与える、または、与えられる題目や主題。

②解決しなければならない問題。果たすべき仕事。

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これを見て僕が思い浮かんだのは、よく聞く「課題解決」という言葉についてだ。

 

 

これまでこの言葉を「今ある問題に対して解決を図ること」と解釈してきたが、

この「課題」の意味を見る限り少し認識を変える必要があるように感じるのだ。

 

 

何故なら、「課題」という言葉自体に既に

「問題を設定し与える」という意味合いが含まれているからである。

 

 

その意味合いを加味すると、「課題解決」とは

「問題を設定し与えた上で解決を図ること」

と言えるのだろう。

 

 

今回のテーマの肝は、

この「設定する」と「与える」の狭間にある

プロセスだ。

 

 

ハッキリ言うと、設定をしようがしまいが、どのような内容を設定しようが

それは設定する側の自由である。

 

 

ただし、その「設定した」内容を相手にそのまま「与える」前に、

その内容について相手と合意、認識をすり合わせるプロセスを踏んでいるのか。

 

 

相手もその内容を「課題」として認識している状態であれば何も問題はない。

相手がその内容を「課題」として認識していないのであれば話は別だ。

(勿論、「何故これが課題だと思えないのか」という押し付けはもってのほかだ。)

 

 

自分と相手の双方が「これは課題だ」と合意もしていないのに、

「課題を解決すること」を一方的な目的にして勝手に「設定」してはいないか。

 

 

 

相手の背景を知らずして

「課題設定」「課題解決」など成立し得ないのだ。

 

 

 

僕は、感じていることはそのまま伝える方が良いと感じている。

 

 

 

そして、相手が感じていることをそのまま聞いた方が良いとも感じている。

 

 

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最後にひとつだけ、以上の話に関連した質問をば。

 

 

 

 

今現在、学校に通わない選択をしている中高生に対し、

「一つだけ質問をしても良いですよ」

と言われたら、あなたは何と聞くだろうか。