「本音」は相手を傷つける?
「本音を話してくれない」
「実際のところ何を考えているのかが読めない」
…こんなことを周囲の人間に対して考えたこと、
または周囲の人間から言われたことはないだろうか。
何を隠そう、これらはしばしば僕が周囲の人間から頂戴する言葉である。
そして、大抵しまいには満を持してこのようなリクエストを頂戴する。
「今日この場では本音で話してほしい。」
この言葉をうけて僕が感じるものは大きく分けてふたつだ。
まずひとつめは、「“話さない”という形で表現している本音もあるんだぞ」。
つまり、「なぜ表現手段を“言葉”のみに制限するのか」という疑問と、
「あえて“話さない”選択をしている機微を忖度してくれ」というワガママである。
無論、ここで言う「“話さない”という形の本音」の種類はいくつかある。
一例を挙げると
・まだ言葉が整理できておらず誤解を招くリスクがあるから今は話したくない
・この感情を無理矢理に慌てて言葉にしても野暮になりそうだから…
・今この場所や状況で話すことに抵抗がある
・何でお前に話さなアカンねん
…といったものである。
(そしてこれはまさに偽らざる僕の「本音」だが、
この「“話さない”という形の本音」を無視して「話す」ことを迫る人間には
自分の本音を丁寧に言葉におこして伝える気は全く湧かない。
何故なら、その場その瞬間で表現しているものを無視されている時点で、
それから何かを伝えたところでそれも無視される可能性があるからだ。)
これらは要するに、本音を「話さない」という選択をしている場面で感じるもの
である。
対してふたつめは、本音を「話している」場面で感じるものだ。
(そう、こちらとしては本音を「話している」つもりにも関わらず、
「本音で話してほしい」と言われてしまう場面があるのだ。)
こういった場面で感じることは、「どっちだ…?」という疑問である。
つまり、
①自分が話してきた本音の内容が、相手が期待していたものとズレている
②そもそも自分と相手の間で「本音で話す」という言葉の定義がズレている
このふたつのうち「どっちだ…?」ということだ。
僕は「①は②の結果論」(=あくまで②が前提)だと捉えているのだが、
このように捉えればそれだけ
じゃあ、あなたが言う「本音で話す」って
結局どういう意味だ?
ということが気になって仕方がないのである。
もっとも、該当する場面ごとに直接相手に尋ね、双方で合意形成をした上で
話を進めるというプロセスを踏むことができればベストではあった。
ただ、「本音で話せ」という言葉が飛び出す程度には会話が温まっている場ゆえ
「そんな質問を投げ掛けてこの流れに水を差すのもな…」と考えてしまった途端に
僕の足はいつの間にかすっかりすくんでしまっている −毎度この繰り返しである。
自分が溜め続けてきたそんなツケを今日改めて思い返してみたところ、
相手が言う「本音で話す」の意味を気にする以前にそもそも
自分自身にとっての「本音で話す」とは何なのか?
を今一度ハッキリさせておく必要があるという実感が燃え上がってきた次第。
したがって、今回はこれについて書き遊んでいく。
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いざ考える段となったときに思いを巡らせることは沢山あったのだが、
どうにもこうにもなかなか難しかったのでまずは手始めに
「本音」という言葉の意味について某辞書を参照してみることにした。
果たして
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①本来の音色。本当の音色。
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②本心からいう言葉。
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ということだった。うん、そうですよね。
ここからもう一歩踏み込んで、「本心」という言葉の意味を参照してみる。
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①本当の心。真実の気持ち。
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②本来あるべき正しい心。良心。
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③たしかな心。正気。
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④本来の性質。うまれつき
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…これが思いのほか僥倖。何かが腹にストンと落ちる。
僕に特に爽快感を与えてくれたのは②の意味だ。
何故なら、
僕が「本音を話す」というテーマにおいて最も納得していなかったのは
・相手を傷つける可能性があるが、それを覚悟して思ったことを言うのが「本音」
という判断がまかり通る場面がままあることだったからだ。
(※これが先程の「相手と“本音”の定義がズレている」と感じる場面の正体である。)
「良心」はポリシーのようなものなので人によって様々あると思うが、
・相手を傷つけることはしない
という要素が僕の中には確実に存在している。
(※無自覚に傷つけてしまうことも勿論あり、その度に反省する人生ではあるが…。)
ゆえに、
「本音」=「本心から言う言葉」を「良心から言う言葉」と置き換えた際に、
「あらかじめ相手を傷つける覚悟をした上で言う言葉」は、
僕にとって「本音」とは呼べない全くの別物だったということなのだ。
「ならば結局お前にとっての“本音”とは何ぞや?」
という話になってくるのだが、僕にとっての「本音」は、結局のところ
「本心」の意味の①「本当の心。真実の気持ち」から言う言葉に近いと考える。
僕は「真実」を「嘘偽りのないこと」と捉えているが、
こと会話の場面における「真実」は
「相手の存在/表現がキッカケとなって自分の中に生まれた感情や感覚そのもの」
のことを指しているように感じている。
つまり、
・僕はあなたの存在/表現を受けてこのように感じた/感じてしまった
・僕はあなたといるこの状況でこのように感じた/感じてしまった
・僕はこのように感じる/感じてしまう人間である。何故なら…
という嘘偽りのない言葉が「本音」ではないかと思い至るのだ。
そして、これが「本音」だとするならば、
「本音で話す」とは、
「相手を刺す/切る/えぐり取る」行為ではなく、
「相手に吐露をする」行為である
という表現が今のところ最もしっくり来る。
(となると尚更、やはり「相手を傷つける覚悟で言う」行為は
「本音で話す」ということではないのだろうと思えてくる。)
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結論。
僕にとっての「本音で話す」とは、
「自分の良心に則って、
相手に自分の感情/感覚を吐露すること」。
くれぐれも「相手を…」という行為ではないのだ。
僕はこの「本音で話す」姿勢を大切な前提としておいた上で、
相手と本音で語り合っていきたい。
某CMへ願いを込めて
「分かる。話す。身ーにつくっ。」
元塾講師の端くれとしては「素晴らしくキャッチーだな」と感じ入りつつ、
同時に色々な考えもむくむくと浮かんでしまうフレーズである。
注)筆者には某個別指導塾(※このCMの塾ではない)で5年、
集団指導形態の塾で2年、講師をしていた 過去がある。
上記のフレーズを提唱している某塾は当然のことながら、
「分かりさえすれば話せるし、話せたら身につく」
という強い信念を持っている訳である。
確かに…
…と唸りつつ、どうにもこうにも何かがひん曲がっている僕のような人間は、
この「分かる」「話す」「身につく」の3要素をそれぞれ個別に分解して
考えてみた際にどうも腑に落ちない感覚に悩まされて仕方がない。
というのも、まず大前提として「講師」と呼ばれる人間の大部分は、
「分かる」という実感を持たせるプロだからだ。
これを自覚した上で、生徒との合意形成と時間を丁寧に積み重ねながら
「身につく」まで責任を持つことができるか否かが、
(このCMを打っているような個別指導塾の形態においては特に)
講師としての力量と生徒の今後を左右する、とも言うことができるだろう。
つまり、生徒が「分かる」という場所までたどり着くことは大前提であり、
(これができないようであればこの時点で「講師」としては退場モノだ)
結局の問題はいかに「身につく」という場所まで生徒がたどり着けるかである。
しかも「身についた」という実感がどのような方法や場面で得られるかは
人間によって千差万別なものだから、もっと言うならば
「身についた」という実感を得られる方法を生徒ごとに一緒に考える必要がある。
・・・・・・・
「分かる」ことができれば「話す」ことができる−
これは確かに間違ってはいないだろう。
しかし、「身につく」実感を得るための方法は本当に「話す」一択なのか。
まさかとは思いつつ、
・生徒の実感をなおざりにして
「話す」ことができたからこの子は「身についた」−
そうだよ、キミは今「話せた」から「身についた」んだよ−
・その後もしその生徒が学習した内容を忘れてしまったとしても、
私たちは一度は「身につく」ところまでコミットはした−
そうだよ、だから今忘れているのはキミの責任だよ−
このような論理を展開しないことを切に願いたい。
CMのキャッチーなフレーズで、この塾の方針や考えに対して
一定数の保護者と中高生はまさに「分かる」実感を得ているだろう。
塾としての力量と生徒の今後は如何に。