真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

個人主義と集団と。 -中編①-

 

 

 

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hp240.hatenablog.com

 

 

 

前回の続きである。

今回と次回は中休みで、自分の過去語りが中心になるがご了承されたい。

 

 

 

思うに、僕が「所属感」と呼ばれるものをスッパリ諦めたのは、

中学校2年生の頃からと言ってほぼ間違い無い。

 

 

俗に言う「厨二病」と言われればそうなるなのかもしれないし、

「たまたまその時期だっただけ」と僕が言い切ってしまえばそうなるのかもしれない。

 

 

何を隠そう、この時期から家族との仲が著しく悪くなったのだ。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

今となっては昔の話だが、僕の両親(特に母親)は大変厳しい親だった。

素行面に関しても、幼稚園の頃から些細なことで「これでもか」という程に叱られたし、

小学生の頃にはすっかり「怒られないように」行動する癖がついていた。

 

 

頭を掻こうと何気なく母親が腕を上げただけで、「殴られる」と身体が反応して

反射的に避ける仕草をしてしまう程だった。

(給食当番のエプロンを持っていくのを忘れて行った日に、

帰った瞬間玄関にあった『日本文学全集』でシバき回されたのも今や笑い話だ。)

 

 

言葉の面でも、「死ね」「生まれてこなければよかった」「里子に出す」

の類は日常茶飯事だったし、実際里子については話を進められたことも何度かある。

結局里子になることは無かったが、家を出された回数は数え切れない。

 

 

素行面以外でも、特に学業面に大変厳しかった。

ともに大学院卒である両親は、僕から見ても「努力の人」だ。

 

 

どちらも文学系を専門に学んだ人間だが、

今になって聞くと、文系院卒の就職やポスト争いというのは大変だったらしく、

ふたりも相当に苦しい時期も経験してきたらしい。

 

 

そして、本人たち曰く

「自分たちは一般企業でやっていけるタイプではなかった」

「でも、院卒で資格持ちだからこそ今こうしてそれなりの仕事につけている」

という性質でもあるので、

そこから派生した「子どもに同じ苦労はさせたくない」という親心だったのだろう、

子どもに対する教育熱についても半端なものではなかった。

 

 

過去に予備校で古文の講師ををしていた母親に

1問間違える度に国語辞典で殴り倒されながら勉強させられたこともあるが、

「数学が苦手」と僕が言えば、僕の性格に合う家庭教師を沢山探してくれたりもした。

 

 

(※お気付きだろうが、素手以外の武器が全て国語関連の分厚いハードカバーなのだ。

当時子ども心ながら「ええんか…?」と感じてはいたが、何はともあれ

これも文学系一家ならではのジレンマのひとつと言えよう。

ちなみに殴られてダントツで一番痛かったのは『カムイ伝』である。)

 

 

「とにかく良い大学に行って、良い企業に就職もしくは医者か弁護士に」

と小学生の頃から言われて育てられてきた。

(※今は親も考えが変わっているのであくまで「当時の話」としてだが、

当時から「神戸大学(関西の国立大)以下は大学じゃない」とも言われてきた。)

 

 

そして、とにかく「完璧」を求められてきた。

 

 

小学生の頃からテストで95点を獲って帰ると

「残り5点の意味を考えなさい」と言われ、その日の友人と遊ぶ予定はキャンセル、

晩御飯の時間までに「意味を考え」、口頭での説明をしなければならなかったし、

授業参観の場で迂闊な発言などしようものならあとは放送禁止だ。

 

 

特に僕は、母親が難病を患っていたなか、

母子ともに奇跡的に一命を取り留めて生まれた長男なので、

母親としても情は人一倍あったし、期待もかけていたという。

 

 

先述したように非常に厳しかったし、

友達付き合いについても「アホな奴とは付き合うな」と言われていた。

 

 

 

 

…そんなこんなが爆発したのが、中学校1年生のときだった。

そして冒頭で述べた通り、中学校2年生で「所属感」を諦めることとなる。

 

 

 

(続く)

 

 

▼次回予告(という名の備忘録)

①とある友人との昼休み談義

②人生初彼女ができたときの家族

③それから先