真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

「頭の悪い人が嫌い」という叫び -前編-

 

 

 

関西の某府県から東京に移り住んで5年目になる。

 

 

東京で暮らし始めてから辛い思いをした経験は質/量ともに

この場では到底書き切れない程のものがある。

(東京の責任ではないことが大半ではあるが。)

 

 

 

その中でも、最初にぶつかった壁はやはり「言葉」だった。

 

 

いや、好意的に見られる場面もあったはあった。

 

 

例えば、「教育系」と呼ばれる仕事に就いていた僕は高校に訪問することも

しばしばあったのだが、出先で女子高生に

「お願いなんですけど、関西弁で“好きやで♡”って言ってください…」

という甘酸っぱいリクエストを受けることは片手でおさまらない程度にはあった。

(言った後に「キャー///」と騒いでいる彼女たちの姿を眺めながら

「俺はここに何しに来たんや…」と苦笑いをしたことも一度や二度ではない。)

 

 

他には僕のホームグラウンドとも言える、夜の飲み屋界隈で

カウンターで同席しているお客の方から屈託のない笑顔で突如

「“なんでやねん!”ってツッコんでください!!!」とのリクエストを戴きもよくする。

もはやこれ自体が「なんでやねん」案件である。

 

 

 

こういった好意的な場もあるにはあるのだが、やはり少数だ。

 

 

 

「女性が方言を使っている姿が可愛い」という世の風潮もあるが、

それをそっくり身長180cm越え・男性ホルモン多めの飲兵衛に情けをかけて適用するほど今の日本社会は寛容ではない。

 

 

勿論基本的なマナーや言葉遣いの面では問題なく東の言語を話せはするのだが、

言葉の端々にイントネーションの差異等が出る。

それについても普段から意識的に改善を図るようにはしていたのだが…

 

 

 

前述したように、僕は「教育系」と呼ばれる職種に就いていて、

学校現場に訪問することも多かったのだが、

某都県の高校で打ち合わせをした際、その高校の先生からは

「失礼ですが、あなたはどちらのご出身ですか?」

「言葉の端々のイントネーションがさっきから気になっていまして」

「そんな満足に標準語も使えない方がこちらの教育現場のことを

把握されているようには思えないんですがねぇ」

という手厳しい牽制球を投げられたりもした。

 

 

挙句の果てには

「ウチは偏差値の低い学校ですけど、そのウチの生徒でも標準語は使っていますよ?」

という

アメリカ人の子どもでも英語は話せるのに」的フィードバックも頂戴した。

もはやトンチの世界観である。

(※勿論担当都県の教育現場に関する勉強はしていたので、

その後の時間で先方にも認めていただけて無事事なきは得た。

「生徒に失礼やろこのアホンダラ」という言葉はグッと飲み込んだ。)

 

 

 

一方でホームグラウンドである筈の飲み屋でも、東京23区の郊外某所に遠征すると

注文の際の「クロキリ」(=黒霧島という芋焼酎)のイントネーションで

関西人だということが大将にバレたらしく、

「申し訳ないけれど、これ1杯飲んだら帰ってくんな」

「俺、関西の人間昔からでぇ嫌ぇなんだよ。エラソーで民度低くてよぉ」

と突如の追い出しを喰らったこともあった。

(ちなみに「クロキリ」のイントネーションは、

関東は「クロ↑キリ」、関西は「クロキリ↑」らしい。これもお勉強である。)

 

 

 

これらは特にどぎつい(そして少し極端な)出来事ではあるが、

他にも大小様々な場面で、兎にも角にも言葉で随分苦労をしたのだ。

そして、腸が煮えくり返る思いをしたことも何度もあった。

 

 

 

東京に出てきて1年が経つ頃には、初対面の方や関係がまだ浅い方に

話の流れで「関西出身です」と打ち明けても

「え…言葉遣い…」「全然分からなかった」と言われるようになった。

よそ行きの言葉を身につけ、晴れてバイリンガルとなったのだ。

 

 

 

 

本題に入る前の枕が随分と長くなったので、今日はここまで。

本題は次回へ。

  

▼次回予告(という名の備忘録)

↓↓

①「アホ」と「バカ」の違い

②「頭の悪い人が嫌い」という発言について

 

 

 

屈託なき歌声の恐怖政治

 

 

 

16歳の頃から「指切りげんまん」という行為が嫌いだ。

 

 

この行為の元々の由来は、

江戸の遊女が永遠の愛を誓い、客に自分の小指を切って渡したことだ。

 

 

転じて、現代において「指切り」は

「約束の厳守」を誓い合う行為として認知され、行われている。

 

 

くれぐれも僕は「約束を厳守する行為」が嫌いなのではない。

(それだと只のクソッタレだ。)

 

 

「指切り」をする際のあの歌を思い出して欲しいのだ。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

♩指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲ます 指切った♩

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「げんまん」は漢字表記だと「拳万」、

つまり、約束を破ると拳で10000発どつき回された上で針を1000本飲ませられるのだ。

こうなると最早「約束」の名を借りた総括であり、恐怖政治である。

 

 

遊女のエピソードを鑑みるに、「並々ならぬ覚悟」を持った側から

「自らの身体の一部を差し出し」、「仕事も断ち相手の男の家に入る」

程の「覚悟」を提示し、それを当事者間でやり取りする、

という意味が当初あったのであろうことは想像がつく。

 

 

しかし、こと現代においては「許す」権利を持つ側から指を差し出している

現実がほとんどであることを鑑みるにつけ、

 

 

自分が「並々ならぬ覚悟」を携えた上で約束を提案することと、

相手に「並々ならぬ覚悟」を携えることを強要した約束を提案することとでは

大きく意味が異なりはしないか?

とどうしても考えてしまうのだ。

 

 

 

例の如く辞書から引用するが、「約束」は以下のように記載されている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①当事者の間で取り決めること。

②ある社会や組織で、守るように定めたきまり。

③その実現が確実視されていること。

④前から決まっている運命。宿命。因縁。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「指切り」をする場面における「約束」の意味は主に①だろうと思われる。

あくまで「取り決める」(=相談の上決定する)ものなのだ。

 

 

 

相談」とは、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

問題の解決のために話し合ったり、他人の意見を聞いたりすること。

 また、その話し合い。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

つまり、約束は

互いに話し合い、意見を聞きながら決めていく」ものである。

 

 

その上で、最後に「互いの覚悟を示し合う」必要があるのであれば、

互いにそれぞれの覚悟を表明、共有し合えば良いではないか。

 

 

それを「嘘ついたら拳骨10000発と針1000本」は

あまりに狂気の沙汰過ぎやしないか。

 

 

と言うより、そこまでの協議をしながら「約束」まで至った間柄であれば、

何か予定と違うことが起きた際、それが本当に「嘘」なのか否かを判別する

協議の余地だってありえなくはない気もする。

 

 

 

僕は、針1000本も、基いそんな「約束」も、とてもではないが飲めない。

 

 

 

 

 

個人主義と集団と。 -後編-

 

 

▼前回の記事

↓↓

hp240.hatenablog.com

 

 

 

僕が過去に感じていたことは前回までの通りである。

 

 

高校入学、そして卒業以降も長らく、

自分以外の存在とは一定の精神的距離を保ちながら過ごしていた。

ある意味、自分自身とも一定の精神的距離を保っていたかもしれない。

 

 

時折「分かってほしい」「甘えたい」という感情も出てくるものの、

その度に「思ったところでどうせそうはならないんやから」と黙殺、

いつしか「別に自分が何を考えようが感じていようが、世間には全く関係ない」

という姿勢が自分の前提になっていた。

 

 

何かムシャクシャする度に、派手に遊び暴れながらふと頭によぎる

「俺は何でこんなフラストレーション溜まってるんやろう?」

という疑問に対する答えも、何となく理解はしていたが蓋をしていた。

 

 

心のどこかでは分かっていたのだ。

 

 

一番近い存在 -つまり家族- を大切にできていない(ばかりか憎んでいる)自分が、

「友達」や「彼女」と呼ばれる存在を作ったところでどうせ大切にできる訳がない。

そんな存在ができたところで、所詮「役割」ありきのロールプレイングでしかない。

 

 

他の人間が当たり前のように持ち合わせている「家族への感謝」、

そしてそれに対する共感の心を、自分は頑張ってみたところで持つことができない。

 

 

こんなコンプレックスを抱えていることを、心のどこかでは分かっていたのだ。

 

 

「だから、俺はダメな人間や」と感じ続けてきた。

でも、「ダメな人間」と感じようが感じまいがそれも世間には関係ないから、

表には出さずに、その場面に合わせた虚勢を張り続け、啖呵を切り続けた。

 

 

「自分以外の人間だって、多かれ少なかれ“役割”を演じているし、

多くの人間はたとえそれに嫌気がさそうとも必然として受け入れているのかもな」

「受け入れきれず、他者との深い交流を避けることを選んでいる自分の方がおかしい」

 

 

そんなことを考え、ますます自分が醜く感じられた。

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

精神医学者のカレン・ホールナイは、

「自分はダメだ」という劣等感の原因を「所属感の欠如」と結論付けている。

 

 

学生の時分に偶然にも触れる機会があった、

社会学者の加藤諦三氏の書籍『劣等感がなくなる方法』の

説明が分かりやすいので、一部を引用してご紹介したい。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

人は劣等意識では決して傷つかない。

たとえば親から「お前はダメな人間」といわれても絶対に傷つかない。

そのダメな自分が親に受け入れられると感じれば、

逆にその言葉は安心と安らぎを与えるものである。

人が傷つくのは、「それゆえに、私は受け入れられない」と感じたときである。

そこでダメという劣等性が劣等感になる。

まさに劣等感の原因はカレン・ホルナイのいうように所属感の欠如なのである。

 

正確には劣等感の原因とは愛の欠如である。

深刻な劣等感に苦しんでいる人は愛のない人生を生きてきたのである。

親から「なんでうちの子はこんなにダメなんだろう」といわれても

決して傷つかないし、劣等感など絶対に持たない。

「うちは大変だよ、馬鹿一人かかえているから」といわれても決して傷つかない。

逆にそれは安らぎの言葉である。

あくまでも、そのダメな私が「受け入れられない」と感じたときに

ダメなことが劣等感になる。

家族のなかでの「孤立と追放」が劣等感の原因である。

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

22歳の頃にひょんなきっかけでこの本に触れたとき、

家族や世間に対する「自分はダメだ」という劣等感の原因が

嫌という程に言葉となって顕在化された。

 

 

自分が把握しながら蓋もしていた根本の根本、

「一番近い存在 -つまり家族- を大切にできていない(ばかりか憎んでいる)自分が…」

云々はあながち間違いでもなかったのだ(と、少なくとも僕は合点が行った)。

 

 

同時に、13歳のあのときからずっと、

家族に対する申し訳なさや良心の呵責、

そして「受け入れられたい」という感情を抱え続けてきたのだと気付くに至った。

 

 

あの時の「分かってほしい」

あの時の「甘えたい」

 

 

無かったことにしてきたが、全ては当時からずっと確かにあった感情なのだと。

 

 

とは言え、(前述したように)

その時には既に「所属感」に対する渇望や拘り自体がすっかり消えていた。

 

 

しかし、自分にも「申し訳なさ」や「良心の呵責」があるのであれば、

自分から家族に歩み寄る義務はあるのではないかと考え付いた。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

長らくの間、すっかり家族との関係が断絶された生活を送っていたなか、

2015年・26歳の頃、

職場に1本の電話が入った。

母親からだった。

 

 

「お父さんが癌になった」

 

 

「入院することになったから、都合がつくなら見舞いに行ってほしい」

と言われた僕は、少し葛藤した。

 

 

「家族という概念…」

「息子・長男という役割…」

「見舞いという演目…」

 

 

嫌な気分を思い出した。

同時に、

「自分がいて良い場所は今もおそらくないだろう」

「自分の存在によって、誰も良い気分にならない結末になる可能性もある」

 

 

「家族に歩み寄る義務がある」という気持ちもあるはある。

しかし、そんな自分の感情は自分以外の人間には関係ない。

 

 

そんなことを考えていると、同僚が声を掛けてきた。

 

 

「大丈夫?すごい落ち着かない顔してるけど…」

 

 

どういった訳か、この「落ち着かない」という言葉で突如踏ん切りがついた。

 

 

「今、俺は落ち着いてないんや」

 

 

純粋に、父親に対する心配の感情が確かにあった。

概念で心配している訳でもない。

役割で心配している訳でもない。

演目の一環で心配している訳でもない。

 

 

ただ単純に、縁あるひとりの人間同士の関係として、彼を心配していた。

そして、「力になれたら」と思った。

次の日には東京を発ち、関西の病院にいた。

 

 

久々に再会した父親と他愛ない話をしながら過ごしていると、

母親も見舞いにやって来た。

 

 

その母親の姿を見て驚いたことがふたつあった。

 

 

ひとつは、顔の表情や言葉の雰囲気。

どちらも、僕が知っているそれではなかった。

まさに「憑き物が落ちた」という表現がピッタリで、全てが柔和になっていた。

 

 

ふたつは、父親に対する言動。

我が家はずっと、親子だけでなく両親の関係も良くなかったのだが、母親の態度を見て

「俺の親って、夫婦でこんなに優しくて、互いに思いられる会話できたんや」と内心目を丸くして驚いた。

 

 

聞くところによると母親は数年前から通信制の高校で教員として働き始め、

そこで様々な背景を持つ生徒や保護者、そして「家庭」というものに触れる中で、

「自分が知らない世界で、これだけ葛藤しながら頑張ってる色んな人がいるんや」

と学んだらしい。

 

 

その後二、三話はするものの、なかなか会話は弾まない。

僕に気を遣ったのか、母親はすぐに病室を後にした。

 

 

その後父親と引き続き話している中で、内心感じたことを共有した。

 

 

父親はこう言った。

 

 

「お母さんもお前がおらんくなってからずっと苦しんでてんぞ」

 

 

そして、続けた。

 

 

「母親としての自分をあいつはずっと自分で責めてた」

「寂しがっててんぞ」

「さっきの俺への接し方の話をしてくれたけど、何やかんや優しいやろ?あいつ」

 

 

当時、母親は50歳を超えていた。

その歳までに積み重ねてきたことを手放して、考えを変えた…

想像を絶する葛藤も、苦しさもあったであろうことを嫌でも掬い取らずにはいられない。

不思議と、純粋に「尊敬」という言葉しか出てこなかった。

 

 

何より、母親も苦しんでいたんだと。

母親も、「役割」の中で、そして所属感の中で苦しんでいたんだと。

 

 

話を更に聞くと、それは父親も同じだった。弟もそうだった。

 

 

「何をしてるんやろう、俺は…」

 

 

この13年間の自分を、心の底から恥じた。

そして、「もうそれぞれ苦しむのは御免だ」、そう強く思った。

 

 

その後1週間弱滞在し、毎日父親の見舞いに訪ねた。

最終日、終電の新幹線に乗る前に、母親と弟の3人で寿司を食べに行った。

 

 

会話の数は決して多くはなかったが、かけがえのない時間だった。

初めて、何の気兼ねもなく、普通の顔をして普通の人間同士として時間を過ごせた。

母親のこれまでの苦しみ、変化、そして気遣いと優しさを十二分に感じた。

 

 

別れた後の帰りの新幹線、東京までの3時間、僕は泣き続けていた。

 

 

以来、家族の関係は劇的に良い方向に向かうことになる。

今や、他愛ない日常の連絡も日常的に取り合う関係。

何より、母親から「お母さんの虐待被害者の会・会長」と呼ばれながら、

過去の諸々も笑い合いながら語り合う関係だ。

 

 

勿論、僕のかつての乱暴な態度や言動を含め、全てを清算できている訳ではないが、

力を合わせながら「家族って何だろう?」という命題に挑戦している。

 

・・・・・・・・・

 

今でも僕は「所属感」と呼ばれるものをあまり感じることがない。 

 

 

「あまり」と表現するにも訳があって、現在の自分の状態を厳密に言ったときに、

2015年のあの日以来、家族とともに「所属感」と呼ばれるものを確かめる日々のなか、

不明瞭ながら「これが所属感なのかもしれない」と感じる場面がごく稀に存在する、

という位の状態にあると捉えているからだ。

 

 

 

 

ただ、現在もやっぱり「所属感」を求める感覚はあまり無い。

 

 

かつて、無いなりに、「無いことを前提に」人生や考えを組み立ててきた時間が

長過ぎたからだろう、「求めない」癖が心身ともについてしまっている。

 

 

しかし、否定や反発をすることはなくなっているのかもしれない。

 

 

「役割」として見なされることに対する虚無感もかなり薄まったように思う。

 

 

「別に、こっちは勝手に1対1の関係性を作れる人間と相応の関係を作るしいいよ」

という感じだ(まぁ、これがなかなかどうして難しいのだが)。

 

 

カレン・ホールナイは劣等感の原因を「所属感の欠如」と言った。

加藤氏は「愛の欠如」と表現した。

 

 

愛が存在する関係性の方が、世の中は少ないだろう。

 

 

同時に、愛が存在していたとしても、気付かなかったり、

すれ違っていたりすることも大いにあるのだろう。 

 

 

 

今でも「所属感」についてはよく分からないことだらけだが、

少なくともあれ以来、色々な人間のそんな「愛」を、

以前よりほんの少しだけ敏感に察知するようにはなっているのかもしれない。

 

 

 

「結論」と呼ぶにはあやふや過ぎるものではあるが、

今の僕にとって、これは十分過ぎる程のフィードバックである。

 

 

 

(終わり)

 

 

 

 

個人主義と集団と。 -中編②-

 

 

 

▼前回の記事

↓↓

 

hp240.hatenablog.com

 

 

 

中休み、過去語りの後編である。

 

 

僕の出身中学校は当時、3つの小学校から生徒が集っていて、

入学後しばらくすると違う小学校出身の友人にも恵まれた。

 

 

そのうちのひとりと特に仲良くなり、

1年生のときの昼休みには毎日、誰もやって来ない穴場、

柔剣道場の前の廊下でふたりで色々なことを語り合うようになっていた。

 

 

彼は教室では少しやんちゃ、そして明るめのキャラクターとして認知されていたが、

その実、見えない部分では日々多くの葛藤と組み合っている人間でもあった。

 

 

・両親が離婚をしていて現在は母親しかいないこと

・その母親は毎日のようにパートに出ていること

・だから自分が兄弟の世話も含め動き回っていること

 

 

そんな話も打ち明けてくれた。

 

 

前回の記事で述べたような小学生時代を過ごしてきた自分にとって、

授業中にふざけることやヤンチャをすること、教師をいじり倒すこと、

そして夜に家に帰らずたむろをすることなんて、

「いやいや何でそんなことできるん!!?」という衝撃でしかなかったのだが、

話を聞いていると、

 

 

・家でも気が休まらないから、せめて学校にいる間はみんなと笑いたい

・親ともほとんど喋る機会がないから、大人への話しかけ方が分からなくて…

・毎日家の世話をしているとたまに嫌になる時があって、帰りたくなくなる

 

 

ひとつ、ひとつと話を聞かせてもらっているうちに、

彼の感情が痛いほど分かってくる。

 

 

何より彼は本当に友達思いの優しい人間だったし、偏見がない人間でもあった。

僕も知らぬ間に小学校時代までのことを訥々と彼に打ち明けていたが、

全てを咀嚼しようとしながらバカ真面目に聞いてくれたし、咀嚼するために

「分からない」ところは「分からない」と言い、その後には必ず

「だからもうちょい詳しく聞かせてくれや」と言ってくれた。

 

 

中学校上がりたて、声変わりもオナニーの快感もまだ知らぬガキンチョ同士にしては

随分と大人びた対話をしていたと思うし、逆に言えばそんなガキンチョ同士ゆえの

柔らかくもたくましい、繊維の奥まで真っ白な対話だったとも言えるだろう。

 

(※「だからもうちょい詳しく聞かせろ」は今の自分の口癖でもあるが、

もうお分かりだろう、当時の彼からの受け売りだ。)

 

 

僕は話せばそれだけ彼のことを好きになり、同時に尊敬も深めていった。

昼に購買で70円のパンを買い、その足で一緒に柔剣道場に行くのが

毎日の楽しみとなっていた。

 

 

 

・・・・・・・・・・

 

 

 

中学校に入って新たな環境で新たな友人ができた。

家に帰り、彼の人柄、話した内容について喋りたくもなる。

 

 

果たして、両親から返ってきた言葉は

「そんな素行も、家の状態も、成績も悪いような奴と付き合うな。」

 

 

悲しくなった、と言うより、絶望に近い感情を覚えたことを今でも記憶している。

 

 

同時に、彼の日々の努力や心の中での葛藤、そして人柄を無視されたことに

心の底から腹が立った。

 

 

以降も、彼との付き合いはやめなかった。

 

 

家に帰るたびに、

「あの子との付き合いはもうやめてきたんか?」

「明日こそは“もうお前とは付き合えへん”って言ってきなさい」

と言われ続けた。

 

 

日を経るごとに、僕の帰宅は遅くなっていった。

もう、表面の表面しか知らない人間に彼のことを毎日のように否定されるのも、

自分自身の感情を否定され続けるのも、

そしてテストの失点や生活のちょっとした緩みを全て

「あんな友達と付き合ってるから」と彼の責任にされ、

「意識をもっと高く持つことに集中しなさい」と言われ続けることも、嫌になっていた。

 

 

そこから、徐々に素行も良くなくなっていった。

 

 

裏でこっそり煙草に手を出すようになったのもこの頃からだし、

眉毛もなくなった。2年生の頃は髪も茶色になった時期もあったし、

家に帰らない日も多くなる。

必然的に、次の日の午前は学校をサボることも珍しくなくなった。

 

 

全ては親に対する抵抗のつもりだった。

「どれだけ良い高校と大学に入れるかが全て」「結果が全て」

と刷り込みのように言い続けてきた親に対する抵抗だった。

 

 

「成績さえ良ければ何でもええんやろ?そう言うたんはお前らやぞ」

(※当時、成績だけは割と良かった。5教科の平均点で90点はずっと獲っていた。

小学校時代から手厚い教育を受けてきた分の貯金でもあったのだが。)

 

 

2年生の秋には、人生で初めての彼女もできた。

 

 

しかし、親の立場からするともう我慢できない。

 

 

目に見えて素行は乱れていっており、家ではしょっちゅう問題も起こす。

まともに会話にも取り合わずに適当に嘘をついてなぁなぁにする。

親心で心配もしているのに、「お前」呼ばわりで悪態をつき回す。

(※後日聞いた話だが、当時の担任からも裏で相当嫌味を言われ続けてきたらしい。)

 

 

自分から見ても、当時の自分の裏での素行は大問題だった。

 

 

その上オンナにうつつを抜かすと来れば、もう大噴火だ。

 

 

毎日のように「女狂い」と罵られ続け、

休日に男友達と遊びに行くにも

「どうせ彼女と会うのだろう」「絶対に会わせない」という名目で監禁もされた。

 

 

しまいには(母親が親戚に何を吹き込んでいたのか知らないが、)

年末の親戚一同の集まりの場で、親戚一同に囲まれ

「別れろ」「別れなければ3学期からは中学校をやめさせて寺に入れる」

「親子の縁も切る。言うことを聞けないのならもういい」と詰められる始末。

(※父方の祖父母の家が34代続く寺なので、マジで話が進んでいた。)

 

 

最後、母親は泣きながら

「本当にあんたは失敗作や。産んだあの時親子もろとも死んどいたら良かった。」

 

 

 

この出来事を機に、僕は完全に「家族」という概念を信頼しなくなった。

 

 

「親の期待に添えない“作品”は失敗、ガラクタなんや」と。

 

 

当時、学校では何だかんだで生徒会役員や学級委員長も務めていたが、

少しでも自分の意のままに行動すると担任やその他教師に

「お前にその役割を任せてる意味を考えろ。期待に応えろ」

と厳しく叱責されることが増えた。

(「増えた」と言うより、例の一件から意識が敏感に向くようになったのだろう。)

 

 

「結局は“役割を果たす”存在でしかなくて、自分の意思は関係ないのね」

「家でも学校でもこういうもんか」

 

 

声変わりも進み、オナニーの快感も覚えた僕は、もうすっかり汚れていた。

 

 

「結局どれだけ近い存在でも“作品” “役割”として利用し合うだけやったんや」

「そんな場所からはもう降りたい」

 

 

人付き合いで距離を置くようになったのはこの時期からだ。

 

 

「どうせ“役割”としてしか見てないくせに、分かるフリして中に入ってくんな!」

 

 

いつも、心の中でこう怒っていた。

 

 

深い付き合いをしている同級生同士を見ていると羨ましくなった。

同時に、「俺にはああはできないんやな」と苦しくもなった。

だから、その感情ごと消し去ることで全てを諦めた。

もう、そうするしか自分を守る方法が無かったのだ。

 

 

諦めもしたし、

中途半端に「所属感」を出してくる輩に全力で反発もした。

「うるさい」「気持ち悪い」しか感じられなかった。

 

 

2年生で一気に身長が伸びた僕は、

家の中で親から殴られることがなくなった。

 

 

日々の生活で溜まりに溜まった鬱憤を、

卑怯にも体格に任せて暴れて発散するようになった。

「お前のせいでこうなったんじゃ!」と。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

3年生になると、学校の移動教室先、指定席に座ると机に

誰に宛てたでもないメッセージが書いてあった。

他のクラスの誰かだ。

確か、当時流行っていた映画「トリック」に関することだったと思う。

 

 

暇な僕は何気なく返事を書くと、次の授業のときには更に返事があった。

 

 

そこからずっと机上の文通をしながら、

「こういう何も気にしない、何気ないやりとりを机でしかできない俺って…」

と虚しくなった。その後は、寝たふりをしてこっそり泣いた。

 

 

でも、あの時間が数少ない当時の僕の救いの時間だったのは確かだ。

 

 

後日談だが、その相手は2年生の頃同じクラスだった女の子だった。

同じ教室にいた時はあまり話す機会もなかったのに、

文通を通し、何故か中学卒業後から仲良くもなった。

不思議なご縁もあるものだとつくづく感じる今日この頃である。

 

 

・・・・・・・・

 

 

その後、高校には無事入学したものの、

高校に入ると更に腐りきっていくこととなる。

 

 

高校に入ると筋肉も急激につき始め、体格で負けることがなくなった。

つくづく卑怯なことに、学校でも、そして街中でも、

更に調子に乗って力任せに鬱憤を晴らす機会が増えた。

 

 

ある程度学業成績が良かった分、俗に言う「進学校」と呼ばれる学校に入ったが、

もうそこでは中学校時代のようにかつての「貯金」は通用しない。

 

 

増してや将来の目標も何もないとなれば、

行き着く結果は「落ちこぼれ」と呼ばれる存在だった。

いつしか素行も相まって「ゴミ」と呼ばれるようになっていた。

 

 

「元々“失敗作のガラクタ”やってんから“ゴミ”でも大して変わらん。好きに呼べや」

 

 

とにかくひとつハッキリしていることは、

少なくとも「人間」としては扱われていないということだ。

あれだけ嫌っていた「役割」さえも、もう任されることはない存在。

 

 

 

もう、「繋がり」や「所属感」の類の感覚は、すっかり消え去っていた。

 

 

 

荒れに、荒れた。

 

 

 

(続く)

 

 

▼次回予告(と言う名の備忘録)

①カレン・ホールナイ「所属感の欠如」について

②今思うことについて「まとめ」(まとめられたら)

 

 

 

個人主義と集団と。 -中編①-

 

 

 

▼前回の記事

↓↓ 

hp240.hatenablog.com

 

 

 

前回の続きである。

今回と次回は中休みで、自分の過去語りが中心になるがご了承されたい。

 

 

 

思うに、僕が「所属感」と呼ばれるものをスッパリ諦めたのは、

中学校2年生の頃からと言ってほぼ間違い無い。

 

 

俗に言う「厨二病」と言われればそうなるなのかもしれないし、

「たまたまその時期だっただけ」と僕が言い切ってしまえばそうなるのかもしれない。

 

 

何を隠そう、この時期から家族との仲が著しく悪くなったのだ。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

今となっては昔の話だが、僕の両親(特に母親)は大変厳しい親だった。

素行面に関しても、幼稚園の頃から些細なことで「これでもか」という程に叱られたし、

小学生の頃にはすっかり「怒られないように」行動する癖がついていた。

 

 

頭を掻こうと何気なく母親が腕を上げただけで、「殴られる」と身体が反応して

反射的に避ける仕草をしてしまう程だった。

(給食当番のエプロンを持っていくのを忘れて行った日に、

帰った瞬間玄関にあった『日本文学全集』でシバき回されたのも今や笑い話だ。)

 

 

言葉の面でも、「死ね」「生まれてこなければよかった」「里子に出す」

の類は日常茶飯事だったし、実際里子については話を進められたことも何度かある。

結局里子になることは無かったが、家を出された回数は数え切れない。

 

 

素行面以外でも、特に学業面に大変厳しかった。

ともに大学院卒である両親は、僕から見ても「努力の人」だ。

 

 

どちらも文学系を専門に学んだ人間だが、

今になって聞くと、文系院卒の就職やポスト争いというのは大変だったらしく、

ふたりも相当に苦しい時期も経験してきたらしい。

 

 

そして、本人たち曰く

「自分たちは一般企業でやっていけるタイプではなかった」

「でも、院卒で資格持ちだからこそ今こうしてそれなりの仕事につけている」

という性質でもあるので、

そこから派生した「子どもに同じ苦労はさせたくない」という親心だったのだろう、

子どもに対する教育熱についても半端なものではなかった。

 

 

過去に予備校で古文の講師ををしていた母親に

1問間違える度に国語辞典で殴り倒されながら勉強させられたこともあるが、

「数学が苦手」と僕が言えば、僕の性格に合う家庭教師を沢山探してくれたりもした。

 

 

(※お気付きだろうが、素手以外の武器が全て国語関連の分厚いハードカバーなのだ。

当時子ども心ながら「ええんか…?」と感じてはいたが、何はともあれ

これも文学系一家ならではのジレンマのひとつと言えよう。

ちなみに殴られてダントツで一番痛かったのは『カムイ伝』である。)

 

 

「とにかく良い大学に行って、良い企業に就職もしくは医者か弁護士に」

と小学生の頃から言われて育てられてきた。

(※今は親も考えが変わっているのであくまで「当時の話」としてだが、

当時から「神戸大学(関西の国立大)以下は大学じゃない」とも言われてきた。)

 

 

そして、とにかく「完璧」を求められてきた。

 

 

小学生の頃からテストで95点を獲って帰ると

「残り5点の意味を考えなさい」と言われ、その日の友人と遊ぶ予定はキャンセル、

晩御飯の時間までに「意味を考え」、口頭での説明をしなければならなかったし、

授業参観の場で迂闊な発言などしようものならあとは放送禁止だ。

 

 

特に僕は、母親が難病を患っていたなか、

母子ともに奇跡的に一命を取り留めて生まれた長男なので、

母親としても情は人一倍あったし、期待もかけていたという。

 

 

先述したように非常に厳しかったし、

友達付き合いについても「アホな奴とは付き合うな」と言われていた。

 

 

 

 

…そんなこんなが爆発したのが、中学校1年生のときだった。

そして冒頭で述べた通り、中学校2年生で「所属感」を諦めることとなる。

 

 

 

(続く)

 

 

▼次回予告(という名の備忘録)

①とある友人との昼休み談義

②人生初彼女ができたときの家族

③それから先

 

 

 

 

個人主義と集団と。 -前編-

 

 

 

「所属感」と呼ばれるものについて。

 

 

僕は「所属感」と呼ばれるものをあまり感じることがない。

 

 

「あまり」と表現するにも訳があって、現在の自分の状態を厳密に言ったときに、

2015年までは全く感じることができなかったのだが、

現在は「これが所属感なのかもしれない」と感じる場面がごく稀に存在する、

という位の状態にあると捉えているからだ。

 

 

ただ、物心がついてからのほとんどの期間、

「(精神的に)所属をする」ということを諦めた上で生きてきたので、

今でもその名残で、「所属感」というものを求めてもいなければ、

必要とも感じていない状態で過ごしているのが実情だ。

(※「深層心理的に云々」という話はあるのかもしれないが、

少なくとも顕在意識においてはこの通りである。)

 

 

このあたりの解釈は自分でも難しいところがあり、

「シュレーティンガーの猫」よろしく、

「ある」と言えば「ある」ものであり、「ない」と言えば「ない」ようなものだ。

 

 

昔から「所属感」に対して上記のような状態だった僕は、

いつしか俗に言う「個人主義」寄りの姿勢を持って生きるようになったし、

他者との関係についても根源的には「1対1」でしか捉えない傾向が身についている。

 

 

もし「その場にいる1人の人間と自分」というものを「集団」と見なすのであれば、

その集団に対する「所属感」は感じている、とも言うことができる。

 

 

しかし、その「1対1」の延長線上としての「集団」となったとき、

その集団に対する「所属感」というものは感じることがない。

 

 

個人に対する関心を持つことはあるにせよ、

いわば「集団」という舞台の上で演者を担当しているその個人を見るにつけ、

そして、そんな複数の個人が綺麗なひとつの演目を完成させていく現象を見るにつけ、

興味はそれぞれの人間ではなく、その現象に向いてしまっている自分に気が付く。

(これは「1対1」の場でさえも時折同じことが起きる。)

 

 

「所属感」を必要としていないから入り込むことをしないのかもしれないし、

入り込まないから「所属感」を体験するに至らないまま停滞しているのかもしれない。

 

 

 

 

そんな停滞している可能性を認識して、何故か少し虚しくなるときがある。

 

 

 

 

と同時に、今はこうも感じる。

 

 

「所属感」をいつか感じられる日が来る、と信じることを諦め、

ある意味避けても来た過去の自分自身の状態から

少し変化をしている部分があるのかもしれない。

 

 

だとするならば、その検証とフィードバック位はしてみても良いのかもしれない。

 

 

 

 

 

そんなことをふと考える今日この頃である。

 

 

 

 

 (続く)(多分)

 

 

 

 

「表現者」という冠について

 

 

表現者」を自称する人間に興味を惹かれる。

同時に、その人間が「表現者」を自称している所以にも強く興味を惹かれる。

 

 

更に同時に、「表現」という言葉の意味について、

まだ明確に定義をできていない自分自身の状態に気付かされる。

 

 

 

hp240.hatenablog.com

 

 

以前にこの記事で述べたように、僕の場合は

「文字」「言葉」という表現手段を最も頻繁に用いている。

この表現手段に対し、思い入れのようなものも持っている。

 

 

世の中には、到底数え切れない程の表現手段が存在している。

 

 

「音」という手段で表現をしている人間もいるし、

「絵」という手段で表現をしている人間もいる。

「体」という手段で表現をしている人間もいるし、

複数の手段を組み合わせて表現をしている人間もいる。

 

 

「歌手」「ドラマー」「演奏家」と呼ばれる人間もいれば、

「画家」「イラストレーター」「俳優」「パフォーマー」と呼ばれる人間もいる。

その他も各種のアスリートや料理人、ソムリエなどなど。

 

 

「歌うたい」を自称している人間もいれば、

「性の伝道師」を自称している人間もいるし、

ハイパーメディアクリエイター」を自称している人間もいる。

 

 

 

 

 

 

 

そんな中で、「表現者」を自称している人間もいる。

 

 

 

 

 

 

これが僕の中では不思議かつ興味深いテーマで、

「何故あえて“表現者”という冠なのか?」

をいつも考察してしまうのだ。

 

 

冒頭で述べたように、僕の中ではまだ「表現」の定義が明確に定まっていない。

その一方で、現時点で考える定義は一応存在するのだが、

これが原因となっている疑問でもあると感じる。

 

 

その定義の中身を述べておくと、

「内面的(心理的/精神的/感情的)なものを客観的形象にすること」

というものなのだが、この定義に従うと

「全人類みな“表現者”じゃね?」となってしまうのだ。

 

 

 

 

ある意味、「どの人間も表現者である」という前提のもと、

「どの手段を用いて表現しているのか」で呼称が枝葉的に分かれている

とも捉えることができなくもない現象が起きているなかで、

あえて大前提である「表現者」を自身の冠としている心根はどういったものなのかが

僕の興味を掴んで離さないのである。

 

 

現時点で僕が感じ取っていることは、おそらく「表現者」を自称している当人は

・各表現手段に対して明確に「ただの手段に過ぎない」と認識している

・特定の手段に拘らず、メタに押し並べて様々な手段を眺めて用いることができている

というところがある可能性が高い、ということだ。

 

 

と言うより、「表現者」を自称するならそうあってほしいという願望かもしれない。

 

 

この憶測/願望が果たして的を射ているのかどうかも怪しいばかりか、

そもそもこの憶測/願望自体、自分のまだあやふやな「表現」の定義を前提としている

ものなので、まだてんで確証を持つことはできていない。

 

 

 

これを機に、「表現者」本人からその真意を教えてもらいながら、

自分にとっての「表現」の定義を磨き上げていきたいと思う次第だ。