真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

個人主義と集団と。 -後編-

 

 

▼前回の記事

↓↓

hp240.hatenablog.com

 

 

 

僕が過去に感じていたことは前回までの通りである。

 

 

高校入学、そして卒業以降も長らく、

自分以外の存在とは一定の精神的距離を保ちながら過ごしていた。

ある意味、自分自身とも一定の精神的距離を保っていたかもしれない。

 

 

時折「分かってほしい」「甘えたい」という感情も出てくるものの、

その度に「思ったところでどうせそうはならないんやから」と黙殺、

いつしか「別に自分が何を考えようが感じていようが、世間には全く関係ない」

という姿勢が自分の前提になっていた。

 

 

何かムシャクシャする度に、派手に遊び暴れながらふと頭によぎる

「俺は何でこんなフラストレーション溜まってるんやろう?」

という疑問に対する答えも、何となく理解はしていたが蓋をしていた。

 

 

心のどこかでは分かっていたのだ。

 

 

一番近い存在 -つまり家族- を大切にできていない(ばかりか憎んでいる)自分が、

「友達」や「彼女」と呼ばれる存在を作ったところでどうせ大切にできる訳がない。

そんな存在ができたところで、所詮「役割」ありきのロールプレイングでしかない。

 

 

他の人間が当たり前のように持ち合わせている「家族への感謝」、

そしてそれに対する共感の心を、自分は頑張ってみたところで持つことができない。

 

 

こんなコンプレックスを抱えていることを、心のどこかでは分かっていたのだ。

 

 

「だから、俺はダメな人間や」と感じ続けてきた。

でも、「ダメな人間」と感じようが感じまいがそれも世間には関係ないから、

表には出さずに、その場面に合わせた虚勢を張り続け、啖呵を切り続けた。

 

 

「自分以外の人間だって、多かれ少なかれ“役割”を演じているし、

多くの人間はたとえそれに嫌気がさそうとも必然として受け入れているのかもな」

「受け入れきれず、他者との深い交流を避けることを選んでいる自分の方がおかしい」

 

 

そんなことを考え、ますます自分が醜く感じられた。

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

精神医学者のカレン・ホールナイは、

「自分はダメだ」という劣等感の原因を「所属感の欠如」と結論付けている。

 

 

学生の時分に偶然にも触れる機会があった、

社会学者の加藤諦三氏の書籍『劣等感がなくなる方法』の

説明が分かりやすいので、一部を引用してご紹介したい。

 

 

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人は劣等意識では決して傷つかない。

たとえば親から「お前はダメな人間」といわれても絶対に傷つかない。

そのダメな自分が親に受け入れられると感じれば、

逆にその言葉は安心と安らぎを与えるものである。

人が傷つくのは、「それゆえに、私は受け入れられない」と感じたときである。

そこでダメという劣等性が劣等感になる。

まさに劣等感の原因はカレン・ホルナイのいうように所属感の欠如なのである。

 

正確には劣等感の原因とは愛の欠如である。

深刻な劣等感に苦しんでいる人は愛のない人生を生きてきたのである。

親から「なんでうちの子はこんなにダメなんだろう」といわれても

決して傷つかないし、劣等感など絶対に持たない。

「うちは大変だよ、馬鹿一人かかえているから」といわれても決して傷つかない。

逆にそれは安らぎの言葉である。

あくまでも、そのダメな私が「受け入れられない」と感じたときに

ダメなことが劣等感になる。

家族のなかでの「孤立と追放」が劣等感の原因である。

 

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22歳の頃にひょんなきっかけでこの本に触れたとき、

家族や世間に対する「自分はダメだ」という劣等感の原因が

嫌という程に言葉となって顕在化された。

 

 

自分が把握しながら蓋もしていた根本の根本、

「一番近い存在 -つまり家族- を大切にできていない(ばかりか憎んでいる)自分が…」

云々はあながち間違いでもなかったのだ(と、少なくとも僕は合点が行った)。

 

 

同時に、13歳のあのときからずっと、

家族に対する申し訳なさや良心の呵責、

そして「受け入れられたい」という感情を抱え続けてきたのだと気付くに至った。

 

 

あの時の「分かってほしい」

あの時の「甘えたい」

 

 

無かったことにしてきたが、全ては当時からずっと確かにあった感情なのだと。

 

 

とは言え、(前述したように)

その時には既に「所属感」に対する渇望や拘り自体がすっかり消えていた。

 

 

しかし、自分にも「申し訳なさ」や「良心の呵責」があるのであれば、

自分から家族に歩み寄る義務はあるのではないかと考え付いた。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

長らくの間、すっかり家族との関係が断絶された生活を送っていたなか、

2015年・26歳の頃、

職場に1本の電話が入った。

母親からだった。

 

 

「お父さんが癌になった」

 

 

「入院することになったから、都合がつくなら見舞いに行ってほしい」

と言われた僕は、少し葛藤した。

 

 

「家族という概念…」

「息子・長男という役割…」

「見舞いという演目…」

 

 

嫌な気分を思い出した。

同時に、

「自分がいて良い場所は今もおそらくないだろう」

「自分の存在によって、誰も良い気分にならない結末になる可能性もある」

 

 

「家族に歩み寄る義務がある」という気持ちもあるはある。

しかし、そんな自分の感情は自分以外の人間には関係ない。

 

 

そんなことを考えていると、同僚が声を掛けてきた。

 

 

「大丈夫?すごい落ち着かない顔してるけど…」

 

 

どういった訳か、この「落ち着かない」という言葉で突如踏ん切りがついた。

 

 

「今、俺は落ち着いてないんや」

 

 

純粋に、父親に対する心配の感情が確かにあった。

概念で心配している訳でもない。

役割で心配している訳でもない。

演目の一環で心配している訳でもない。

 

 

ただ単純に、縁あるひとりの人間同士の関係として、彼を心配していた。

そして、「力になれたら」と思った。

次の日には東京を発ち、関西の病院にいた。

 

 

久々に再会した父親と他愛ない話をしながら過ごしていると、

母親も見舞いにやって来た。

 

 

その母親の姿を見て驚いたことがふたつあった。

 

 

ひとつは、顔の表情や言葉の雰囲気。

どちらも、僕が知っているそれではなかった。

まさに「憑き物が落ちた」という表現がピッタリで、全てが柔和になっていた。

 

 

ふたつは、父親に対する言動。

我が家はずっと、親子だけでなく両親の関係も良くなかったのだが、母親の態度を見て

「俺の親って、夫婦でこんなに優しくて、互いに思いられる会話できたんや」と内心目を丸くして驚いた。

 

 

聞くところによると母親は数年前から通信制の高校で教員として働き始め、

そこで様々な背景を持つ生徒や保護者、そして「家庭」というものに触れる中で、

「自分が知らない世界で、これだけ葛藤しながら頑張ってる色んな人がいるんや」

と学んだらしい。

 

 

その後二、三話はするものの、なかなか会話は弾まない。

僕に気を遣ったのか、母親はすぐに病室を後にした。

 

 

その後父親と引き続き話している中で、内心感じたことを共有した。

 

 

父親はこう言った。

 

 

「お母さんもお前がおらんくなってからずっと苦しんでてんぞ」

 

 

そして、続けた。

 

 

「母親としての自分をあいつはずっと自分で責めてた」

「寂しがっててんぞ」

「さっきの俺への接し方の話をしてくれたけど、何やかんや優しいやろ?あいつ」

 

 

当時、母親は50歳を超えていた。

その歳までに積み重ねてきたことを手放して、考えを変えた…

想像を絶する葛藤も、苦しさもあったであろうことを嫌でも掬い取らずにはいられない。

不思議と、純粋に「尊敬」という言葉しか出てこなかった。

 

 

何より、母親も苦しんでいたんだと。

母親も、「役割」の中で、そして所属感の中で苦しんでいたんだと。

 

 

話を更に聞くと、それは父親も同じだった。弟もそうだった。

 

 

「何をしてるんやろう、俺は…」

 

 

この13年間の自分を、心の底から恥じた。

そして、「もうそれぞれ苦しむのは御免だ」、そう強く思った。

 

 

その後1週間弱滞在し、毎日父親の見舞いに訪ねた。

最終日、終電の新幹線に乗る前に、母親と弟の3人で寿司を食べに行った。

 

 

会話の数は決して多くはなかったが、かけがえのない時間だった。

初めて、何の気兼ねもなく、普通の顔をして普通の人間同士として時間を過ごせた。

母親のこれまでの苦しみ、変化、そして気遣いと優しさを十二分に感じた。

 

 

別れた後の帰りの新幹線、東京までの3時間、僕は泣き続けていた。

 

 

以来、家族の関係は劇的に良い方向に向かうことになる。

今や、他愛ない日常の連絡も日常的に取り合う関係。

何より、母親から「お母さんの虐待被害者の会・会長」と呼ばれながら、

過去の諸々も笑い合いながら語り合う関係だ。

 

 

勿論、僕のかつての乱暴な態度や言動を含め、全てを清算できている訳ではないが、

力を合わせながら「家族って何だろう?」という命題に挑戦している。

 

・・・・・・・・・

 

今でも僕は「所属感」と呼ばれるものをあまり感じることがない。 

 

 

「あまり」と表現するにも訳があって、現在の自分の状態を厳密に言ったときに、

2015年のあの日以来、家族とともに「所属感」と呼ばれるものを確かめる日々のなか、

不明瞭ながら「これが所属感なのかもしれない」と感じる場面がごく稀に存在する、

という位の状態にあると捉えているからだ。

 

 

 

 

ただ、現在もやっぱり「所属感」を求める感覚はあまり無い。

 

 

かつて、無いなりに、「無いことを前提に」人生や考えを組み立ててきた時間が

長過ぎたからだろう、「求めない」癖が心身ともについてしまっている。

 

 

しかし、否定や反発をすることはなくなっているのかもしれない。

 

 

「役割」として見なされることに対する虚無感もかなり薄まったように思う。

 

 

「別に、こっちは勝手に1対1の関係性を作れる人間と相応の関係を作るしいいよ」

という感じだ(まぁ、これがなかなかどうして難しいのだが)。

 

 

カレン・ホールナイは劣等感の原因を「所属感の欠如」と言った。

加藤氏は「愛の欠如」と表現した。

 

 

愛が存在する関係性の方が、世の中は少ないだろう。

 

 

同時に、愛が存在していたとしても、気付かなかったり、

すれ違っていたりすることも大いにあるのだろう。 

 

 

 

今でも「所属感」についてはよく分からないことだらけだが、

少なくともあれ以来、色々な人間のそんな「愛」を、

以前よりほんの少しだけ敏感に察知するようにはなっているのかもしれない。

 

 

 

「結論」と呼ぶにはあやふや過ぎるものではあるが、

今の僕にとって、これは十分過ぎる程のフィードバックである。

 

 

 

(終わり)