真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

空白期間から取り戻した「主客」の関係

 

 

 

ここ最近脳ミソの調子が思わしくなく更新を止めていたが、

本日から再開をしてみることにした次第である。

 

 

現在絶賛人生療養中の身でもある僕は、現在の生活のテーマとして

「感覚←→表情←→身体の動きの一致」を掲げている。

詰まるところ、「脳ミソと表現の一致」である。

 

 

 

その脳ミソが最悪のコンディションだった訳で、

結局身体共々何も機能していなかったという顛末だ。

 

 

 

僕は文章表現を愛している。

しかし、まだ自分の文章表現を好きになることはできていない。

 

 

 

そもそもよく考えてみると、僕は小さな頃からずっと

「文章という表現手段に依存し続けてきた」

とも言うことができる。

他の表現手段がからっきしダメだったからだ。

 

 

 

まずは「ベシャリ」。

何だかんだキャラクターでやり過ごしてはきたものの、

本来周囲の人間の目線や関心がこちらに向いている感覚が苦手なので、

できる限り口を開かずにその場が過ぎ去ることを望んできた。

口を開くのは、どうしても許せないことに対してディベートを挑むときだけ。

そんな状態が20歳頃まで続いていた名残で、今も苦手意識が強い。

ダメ。

 

 

次に「絵」。

小学校時代、

描いた絵に対する教師の評価は「うん…豪快やね…」、

親からの評価は「ヘッタクソwww」。実に残酷な世界である。

中学校時代に至っては真剣にデッサンに取り組んでいたところ、

いきなり後ろから「真面目に描け!」と美術教師に殴り倒された。

それ以来、絵に関しては冗談抜きでイップス状態である。

これもダメ。

 

 

「音楽」。

演奏できるのはリコーダーだけ。歌唱力もない。

そもそも前述のように多数の人間の目線が向いている環境で

何かを表現することが大きなハードルとしてのし掛かる。

やっぱりダメ。

 

 

最後に「暴力」。

僕の数少ない表現手段であったように思う。

しかしこれも19歳で卒業した(その理由については改めて別に書きたい)。

ダメ、と言うより論外である。

 

 

 

そのような中で、

現在も生き残っている表現手段が「文章」だけなのだ。

 

 

 

 小さな頃から本を読む機会が多かったこと、

その中で出逢う言葉に救われた経験があったこと。

今思えば、それらも大いなる影響をもたらしているだろう。

 

 

それより何より、

読んでいる文章と僕が交わっている時間は誰にも邪魔されない。

自分のペースで考え事をしながら、自分の思うままに言葉に落とす時間もまた、

誰にも邪魔されない、自分だけのものだ。

 

 

必然的に、

自分の感覚の再現率が最も高い表現手段が

僕にとっては「文章」となり果てていった

訳である。

 

 

 

今年に入ってからはやめてしまったが、昨年まで僕は

高校卒業後の18歳の5月から10年以上、毎日日記をつけていた。

 

 

「文章を書く時間に救いや憩いを求めていたから」であり、

同時に「当時の自分の感覚から今を紡ぐため」であった。

 

 

それ程に文章という表現手段の再現率に信頼を置いていたし、

文章を書く時間に救われてきた訳である。

 

 

 

…そして、依存もしてきた。

 

 

 

この療養期間中、いかに「脳ミソと表現の一致」を図るかという事案において、

何の疑いもなく真っ先に頭に出てきた手段が「当ブログの開設」だった。

 

 

毎日記事を投稿しながら、確かに一定の充足は感じていた。

しかし、どこかにストンと腑に落ちない部分があったことも確かだ。

 

 

それが「疑いもなく文章を表現手段として選択していること」にある、

と気付くまでそう時間は掛からなかった。

 

 

気付いたのは、この記事を書いた翌日だ。

 

 

hp240.hatenablog.com

 

 

今見てみても、結果的には「よく書いた記事だ」と言えるものだが、

今思い返すと書いている間の感覚もかなり独特なものだった。

 

 

一言で言うと、

「文章に脳が乗っ取られている」感覚

とでも言うべきだろうか。

 

 

言わば、「言葉に落としてしまうと野暮になってしまうもの」さえも

限界まで言葉を尽くして表現しようとし過ぎている箇所がある。

 

 

「文章表現」という枠組みで見てみると

「この表現がよくスッと出てきたな」と自分でも感じる文だが、

親玉である感覚と照らし合わせてみると、これが大変野暮ったいのだ。

 

 

 

…そういった顛末で、少し文章に落とす行為に怯えるようになり、

しばらくはパソコンから離れていたのがここしばらくの期間である。

 

 

 

この期間中に何をしていたかと言うと、

イップスのお陰で変なペンの持ち方になりながら久々に絵を描いてみたり、

普段は全く撮らない写真を撮ってみたり、

一切何も参照しない状態で思うがままに新しい料理メニューを開発してみたり、

とにかく「文章」という手段を捨てた縛りプレイで実験をしていた。

 

 

 

ひとつひとつの細かい検証結果は端折るが、得てして収穫は、

「依存しない状態で適切に、

これからも文章と付き合っていける」という確信

だった。

 

 

 

絵、写真、そして料理。

それ意外にもマンガやアニメなどなど。

それぞれに「こういう部分の表現はこの手段が秀でてんなぁ」

と感じる部分があり、それをまさに「体感」できたことで、

文章という手段に対しても俯瞰して眺めることができた期間だった。

 

 

 

何より、

「表現している主体は自分の存在そのものである」

という大前提を認識できたことが最も大きい。

 

 

 

そんな今、改めて声を大にして言いたい。

 

 

僕は文章表現を愛している。

 

 

そして、自分の文章表現を「好きだ」と言える日を目指してみたい。

 

 

空白期間以前より、その日は近くなっている気がする。…多分。