個人主義と集団と。 -前編-
「所属感」と呼ばれるものについて。
僕は「所属感」と呼ばれるものをあまり感じることがない。
「あまり」と表現するにも訳があって、現在の自分の状態を厳密に言ったときに、
2015年までは全く感じることができなかったのだが、
現在は「これが所属感なのかもしれない」と感じる場面がごく稀に存在する、
という位の状態にあると捉えているからだ。
ただ、物心がついてからのほとんどの期間、
「(精神的に)所属をする」ということを諦めた上で生きてきたので、
今でもその名残で、「所属感」というものを求めてもいなければ、
必要とも感じていない状態で過ごしているのが実情だ。
(※「深層心理的に云々」という話はあるのかもしれないが、
少なくとも顕在意識においてはこの通りである。)
このあたりの解釈は自分でも難しいところがあり、
「シュレーティンガーの猫」よろしく、
「ある」と言えば「ある」ものであり、「ない」と言えば「ない」ようなものだ。
昔から「所属感」に対して上記のような状態だった僕は、
いつしか俗に言う「個人主義」寄りの姿勢を持って生きるようになったし、
他者との関係についても根源的には「1対1」でしか捉えない傾向が身についている。
もし「その場にいる1人の人間と自分」というものを「集団」と見なすのであれば、
その集団に対する「所属感」は感じている、とも言うことができる。
しかし、その「1対1」の延長線上としての「集団」となったとき、
その集団に対する「所属感」というものは感じることがない。
個人に対する関心を持つことはあるにせよ、
いわば「集団」という舞台の上で演者を担当しているその個人を見るにつけ、
そして、そんな複数の個人が綺麗なひとつの演目を完成させていく現象を見るにつけ、
興味はそれぞれの人間ではなく、その現象に向いてしまっている自分に気が付く。
(これは「1対1」の場でさえも時折同じことが起きる。)
「所属感」を必要としていないから入り込むことをしないのかもしれないし、
入り込まないから「所属感」を体験するに至らないまま停滞しているのかもしれない。
そんな停滞している可能性を認識して、何故か少し虚しくなるときがある。
と同時に、今はこうも感じる。
「所属感」をいつか感じられる日が来る、と信じることを諦め、
ある意味避けても来た過去の自分自身の状態から
少し変化をしている部分があるのかもしれない。
だとするならば、その検証とフィードバック位はしてみても良いのかもしれない。
そんなことをふと考える今日この頃である。
(続く)(多分)