真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

「どうとく」という冒涜 -後編-

 

 

 

昨日書いた内容の続きである。

 

 

▼昨日の記事

↓↓

hp240.hatenablog.com

 

 

 

『星野くんの二塁打』については、広く知られている解釈として

「事前に合意したものを無視して勝手な行動をすると、

周囲に迷惑を掛けてしまうケースがある、ということを伝えている」

というものが挙げられている。

(とは言え、望んでいた結果が出てしまっているので、

「伝わりづらいわ!」という声も根強くあるそうだが。)

 

 

 

僕個人としては、(かなりこじつけて寄せた解釈として)

「個人間で協議の上約束した内容を反故にしてしまった時に、

約束した相手はどのように感じるのか」を考える話である…

という可能性もあり得なくはないと捉えている。

 

 

 

しかしいずれの解釈をするにせよ、どこか腑に落ちない。

「何のために?」という基準で考えた際に、どうしても腑に落ちないのだ。

 

 

 

監督は、「チームの勝利のため」に星野くんにバントを指示した。

 

 

星野くんは、とっさの判断でバットを振りぬくことを選択したが、

それも「チームの勝利のため」である。

 

 

そして、チームは勝利した。

 

 

共通の目的のために採った行動によって、その目的は達成された訳だ。

 

 

その末路が、

「ぼくは、こんどの大会に星野くんの出場を禁じたいと思う。 

とうぶん、きんしんしてもらいたいのだ。

そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。 

しかし、それはやむをえないことと、あきらめてもらうよりはしかたがない。」

という監督の決断である。

 

 

 

この言葉に込められた監督の意図を、ふたつ想像している。

 

 

 

ひとつは、「星野くん自身の成長を思って…」というもの。

ひとつは、「指示と合意を反故にしやがって…もうコイツは信用できん」というもの。

 

 

僕の意見は、いずれにせよ「とっとと監督をお辞めになりなさい」である。

 

 

前者の場合だと、

試合中は「チームの勝利のため」に星野くんに指示を出したにも関わらず、

その結果を受け、事後になって「星野のため」と論理のすり替えを行っている。

 

 

僕ならばこういう監督について行きたくない。

いちいち目的をコロコロ替えられてはたまったものではないからだ。

 

 

後者の場合も、「チームの勝利のため」というそもそもの目的を

彼個人の感情の問題によって見失っている。

 

 

ひとりの人間として感情は理解できるが、監督の器ではないだろう。

(そして「理解できる」とは言ったものの、到底納得できるものではない。)

 

 

 

僕が『星野くんの二塁打』に対して持っている

解釈のメイン対象は、

「星野くん」ではなく「監督」側なのだ。

 

 

 

(※補足しておくと、

この教材が「道徳」の授業教材として使われていたのは数十年前の話である。

そもそもの話の内容に対して感じる部分がある方もいらっしゃるとは想像するが、

当時と現在とでは社会の前提も変化しているし、その中で

あくまで当時の社会の中で、小学生を対象に広く用いられていた教材である、

という前提を念頭に置いておきたい。)

 

 ここまで述べたのはあくまで僕の所感であって、「正解」ではない。

 

解釈の主体の置き場も十人十色であるし、

同じ主体に対しても様々な解釈の広がりがある。

 

「それで良いのでは?」と感じるのは僕だけだろうか。


・・・・・・・・

 そもそも、「道徳」とは何なのだろう。 

 

例のごとく辞書を引用すると、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、

 守り従わねばならない規範の総体

 外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、

 自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

②小・中学校の教科の一。

 生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの。

 昭和33年(1958)に教科外活動の一つとして教育課程に設けられ、

 平成27年(2015)学習指導要領の改正に伴い「特別の教科」となった。

③《道と徳を説くところから》老子の学。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

とある。

 

 

 

③の「老子道徳経」についての話はここでは割愛して、

①の意味を中心に考えてみたい。

 

 

 

この「善悪をわきまえて正しい行為をなす」という部分の

「善悪」「正しい」という部分が実に厄介なのだ。

 

 

 

先程の話を例に挙げると、僕の場合は、

チームメイト、監督を含めたチーム全員と一緒に「勝利」を目指している中で、

絶好球が来た瞬間に「勝利」のために打つ選択をしたことを

「悪」であるとはとても言えない。

 

 

しかし、その瞬間、「さっきの合意と違うことをしたら監督はどう思うだろう…」

と考えて行動することも「悪」とは言えない。

 

 

ただ、「そんな諸々を考えに考えた上で行動した」という

星野くんの姿勢は全力で肯定したくなる。

 

 

逆に、(僕が想像している範囲で)監督の最終的な姿勢は、

僕の中ではどうしても「善」たり得ない。

 

 

 

そもそも、

「善」「悪」「正しさ」…

それぞれをハッキリと区別して決めてしまう姿勢が

本当に「規範」なのだろうか。

 

 

 

むしろ、

それぞれの人間ごとに「善」「悪」「正」の基準があること。

その基準に至るまでにはそれぞれの体験の積み重ねがあること。

そして、「善」「悪」「正」と結論付けてしまう前に、

まだ自分が考えもしなかったような解釈の可能性がいくつも存在すること。

 

 それらを体感して認識し続けていきながら、

その積み重ねの中でひとつずつ自分なりの判断を紡いでいく姿勢の方が、

個人的にはよほど「規範」であるように感じてならないのだ。

 

・・・・・・・・・・・

  

先日、某テレビで小学校の道徳の授業が特集されていた。

  

「家族愛」をテーマにした授業で、

「母親の家事労働は無償だ」「家族に対価を求めないのは当然である」

という論調がその場を支配している中で、ひとりの生徒が

「お母さんも家事に対してお金をもらいたいのではないか」

「子どもは偉いことをするとお金がもらえる。子どもっていいな、って」

という意見を発信した一幕があった。

 

彼の両親は共働きで、母親は働きながら家事をしている。

そんな母親のことを想っての発言だったのだが、

教師が「でもそれは…(以下省略)」と遮ると同時に、

他の生徒たちも同調して、その子の意見は黙殺されてしまった。

 

以降の時間、彼は目に涙を浮かべたまま、一言も発することはなかった。

 

これが、「規範」だろうか。

これが、「道徳」だろうか。

 

 僕はそうは思えない。

彼に対する「冒涜」だと感じてしまう。

 

 放送内容からはうまく読み取れなかったのだが、

教師の方にもきっと思惑や事情があったのだと想像している。

(これについては今日以降も想像を続けていきたいと思っている。)

 

 「道徳」を「授業」する、ということの構造的な問題もあるのかもしれない。

(「授業」は「学校などで、学問や技芸を教え授けること」という意味だ。)

 

 ただ、やはり僕はどうしてもあの授業の様子に、

星野くんと監督が重なってしまって仕方がないのだ。

 

オチとして、その理由を明かす。

ひとえに小学生時代、「どうとく」の授業に良い思い出がないからだ。

(特に3、4年生の頃である。)

 

僕の地域は今思えば、その土地独特の様々な「大人の事情」を含んだ

「どうとく」の授業内容を展開していたが、その内情と言えば、

担任の先生の意にそぐわない発信をすると

「そういう風に考えてしまうこと自体が間違っている」と封殺される。

しかもテストまであり、「どう思いますか?」という問題にマルバツがついた。

 

 勿論点数が悪いので、親にはテストの存在すら知らせないまま見せずにいると、

何も知らない状態の母親は保護者面談の場でいきなり担任から

「息子さんは常識や道徳心がない」とお叱りを受けるのだ。


「普段の学校生活でよっぽど素行が悪いのだ」と勘違いしたまま

帰ってきた母親に国語辞典で頭の形が変わるまでボコボコに殴られたことは生涯忘れない。

 

・・・・・・・・・・・

 

現在の「学習指導要領解説」では、

・特定の道徳的価値を教え込んではいけない
・これからの道徳は考え、議論する道徳でなければいけない

と記載されているそうだ。

 

 

 

くれぐれも「ど」と「ぼ」を読み違えないことを、切に望む。