【番外編】「卒業」への手向けとして
基本として
「筆者が常日頃疑問に思っている小ネタを改めて考察してみる」
という探偵ナ●トスクープ的な姿勢を採っている当ブログだが、
今日は番外編として、とある集団の人間たちに対する手向けを短めに記す。
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「卒業」
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①学校の全課程を学び終えること。
②ある段階や時期を通り過ぎること。
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「終わり」を迎え、区切りを意味するのが①であるとするならば、
②には「通過点」としてこの先を見据える意味が含まれていると言える。
学校の「卒業式」それ自体は文字通り①を祝いねぎらう舞台であろうが、
「卒業」を迎えたあなたは②も強く意識し、噛み締めていることと想像する。
私事ではあるが、僕が最後に「卒業」を経験したのは約10年前の高校卒業になる。
頭脳、行動の両面待ちで役満をアガれる程に多くの問題を抱えていた当時の僕は、
まず①の意味での「卒業」をできるか自体が怪しい状況だった。
「卒業証書」という紙切れ1枚を手に入れるためにとりあえず帳尻を合わせた訳だ。
お察しの通り、それまでの高校生活3年間は自分にとって
「積み上げた」という実感を持てるものが何もない時間だった。
だから卒業式の日、A3サイズの紙を仰々しく渡されても誇らしさも感じなければ、
何ひとつ心が動く要素すらなかった。あの感覚は生涯忘れないだろう。
当然②のような「この先を見据えた通過点」という実感も皆無だった。
僕には「卒業」に込められているべき積み重ねも、この先の未来もなかったのだ。
人生最後の「卒業」は、空っぽで、何も詰まっていないものだった。
だから、「卒業」に際して笑えている人間、泣けている人間、
そんな人間たちのことを羨ましく感じるとともに、尊敬してやまない。
それだけの積み重ねを自分自身で感じられていること。
その積み重ねがあったからであろう持てている先を見据える眼。
それらはあなた自身が紡ぎに紡ぎ、手に入れたものだ。
僕に「どうか誇りを持ってください」などと野暮なことを言われずとも、
誇りも、その他の言葉にならない実感も既に持っていることと想像する。
僕からは替わりに、文学狂として歌をふたつ贈りたい。
いずれも樋口一葉さんの歌である。
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何となく 友の恋しき夕べかな 松風寒き よもぎふの宿
極みなき 大海原へ出でにけり やらばや小舟 波のまにまに
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意味は何となく感じておくれ。
それではまた飲み屋で。