真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

「お客様は神様」なのか真剣に考察してみた

 

 

 

 

 

僕は酒が好きだ。

飲みに出かける日にはついつい歩幅が大きくなる。

 

 

特にひとりで飲みに行く店は

①小さな店でカウンター席がある

②店の人間がラフ、フラットである

③勿論メシがうまい

という条件が揃っていると好ましい。

 

 

元来、僕はかなり人見知りをする人間である。

見た目やキャラクターの力で気付かれずにやり過ごせることは多いものの、

その裏では「少しでも早くお互いにとって居心地の良い雰囲気を作らないと…!」

と脳ミソに冷や汗をかきながら全身の血管が開きまくっているのが常である。

 

 

そんな人間が、なぜ上記のような条件の店を好むのか。

 

 

ひとえに、人間同士の付き合いを求めているからである。

人見知りにだって、繋がりを求める欲求は存在しているのだ。

 

 

①小さな店でカウンター席がある

と、必然的に店の人間との距離が近くなる。その状況下で

②店員さんがラフ、フラットである

と、僕のような人間にとっては涙が出るほどありがたい。

 

 

「僕はここにいて良いんだ」という安心感で肩の力がフッと抜ける。

そこへ来てメシが美味いとなれば、後日2回目の訪問となるのは必然の流れだ。

 

 

そして、こういった店には必ず「常連」と呼ばれる人間達が居座っている。

 そんな時のカウンター席の威力はもう凄まじい。

 

 

「この間も来てましてたよね?」「家、近いんスか?」から始まり、

行き着く先はカウンター席で肩を並べながらの乾杯。

こんな時の酒は、ほんの少し残っていた緊張をも絶妙な塩梅で洗い流してくれる。

 

 

どうせ同じ「語らう時間」を過ごすなら、机を挟んで向き合いながら過ごすより、

肩がぶつかり合うリスクを楽しみつつ同じ方向を向きながら過ごす方が

話も酒もグイグイ進む。

 

 

果たして、上機嫌でそろそろ帰ろうかという頃には

「飲み友達」がひとり、ふたりとできているという訳だ。

 

 

そんなこんなを繰り返すうちに、

いつの間にか自分もすっかり「常連」と呼んでいただく側に成り果て、

今や「飲み友達」を越えて「仲間」となった連中とやかましくハシゴ酒もすれば、

悩みを打ち明け合いながらしっぽりと涙割りの酒を酌み交わしもする。

 

 

挙げ句の果てには店の人間さえも「飲み仲間」と化してしまい、

彼のオフの日には昼から一緒に飲みに出かける始末。

そんな人生を送る羽目となっている。

 

  

(結局、「街全体が飲み屋」と表現できる程の街で暮らし始めて4年以上になるが、

いつだって飲む店のレパートリーはこんな物語が生まれ続ける3件ほどに収まる。)

 

 

 

今となっては本当に大切なご縁になっている人間が沢山いるし、

今なお新たなご縁が積み重なり続けているが、その原点はひとえに

初めてその店に入った時の、スタッフの方の態度だったと感じる。

 

 

あの瞬間があったからこそ、

他の客連中とも上記のような関係性ができているし、それだけではなく

店の人間とも多くのやりとりが積み重ねられ、大切な仲を築くに至っている。

 

 

「前からもっとゆっくり話したかったんだよね」と言ってもらい、

オーナーが閉店後に一緒に飲んでくれた店もある。

 

 

仕事で悩んでいる時に相談に乗ってもらい、

マスターが一緒に泣きながら一杯ご馳走してくれた店もある。

 

 

 

 

…そして、店の主からよく叱られる店もある。

 

 

 

 

叱られる理由は「言葉遣い」「ふとした時の態度」等様々だ。

 

 

彼の姿勢は常に一貫している。

客がどれだけ長い付き合いであろうと、自分より年齢が上であろうと下であろうと、

彼が「言うべきだ」と思ったことを真っ直ぐに伝える。

 

 

それが原因で、数年来の常連客が来なくなってしまったこともある。

(僕はその一部始終を生で見届けていた。)

 

 

実際、僕も「耳が痛い」どころか「頭を棍棒でどつかれる」レベルのことを言われる。

そしてそれらはいつも憎たらしいほど的を射てくる。

 

 

ただ、僕と彼の間には信頼がある。

だから僕は「自分のことを分かった上で言ってくれている」と捉えているし、

「信頼がある」と言い切れるだけの積み重ねがあるからこそ

毎回それだけ的を射られるのだろう、とも捉えている。

 

 

 

僕は彼、そして彼の店が大好きだ。

その理由は明確だ。

 

 

 

僕のことを一人の人間として扱い、

人間同士の付き合いをしてくれるからだ。 

 

 

 

その店以外では まだ 叱られたことはないものの、

他の店、そしてその人間のことが大好きな理由も全く同じだ。

 

 

 

だから、僕は声を大にして言いたい。

 

 

 

 

「俺たち客は神様じゃない」 と。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「お客様は神様です」というこの言葉。

 

 

由来を調べてみると、この言葉を初めて用いたのは

歌手の三波春夫(みなみはるお)さんらしい。

 

 

「三波さんはお客様をどう思いますか?」という質問に対する返答として

「うーむ、お客様は神様だと思いますね」と仰っている。

 

 

 

曰くその真意は、

 

「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、

心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのです。

ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。」

 

「また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。

だからお客様は絶対者、神様なのです」

 

 

 

つまり、演者側の矜持を表現したものと捉えられる。

 

 

 

聴衆(客)の思惑ではなく、あくまで演者側の心意気

ということだ。

 

・・・・・・・・・

この「お客様は神様です」という言葉と

同様の扱いを受けている概念として、

ホスピタリティ(hospitality)というものが挙げられる。

 

元は提供者側が「大切にしよう」と心がけて持ち始めたものであるにも関わらず、

いつの間にか客側が「あの店はある/ない」を判断するものとなっている。

 

 そもそもhospitalityの意味は、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心のこもったもてなし。手厚いもてなし。歓待。また、歓待の精神。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

というものだ。

 

 hospitalityの語源はラテン語hospesという言葉だが、

この意味を紹介したい。

ーーーーーーーーーー

①主人。

②客。訪問者。

③余所者(よそもの)

ーーーーーーーーーー

 

 この意味から押さえておきたい重要な前提は、

hospitality(もてなし、歓待)には主人/客人の双方が関わっている

ということだ。(当たり前だが。)

 

 問題は、この主人/客人の関係性である。 

  

この関係性について考えるための材料として、

ここからもう一段遡った言葉の起源を紹介したい。

 

先程紹介したhospesという言葉の起源をたどってみると、

hostisという言葉にたどり着く。

 

このhostisの意味は、端的に言うと先程のhospesの③の意味、

つまり「余所者」となるのだが、この中には

ーーーーーーーーーーーーー

①好ましい余所者 =客人

②敵対する余所者 =敵

ーーーーーーーーーーーーー

というふたつの相反する意味が含まれている。

 

そもそも、hospitalityの起源は古代ローマ

「放浪する宗教者や遠来の客人を神の化身とみなして歓待する風習」

 だと言われている。

(まさに三波さんの発言と通ずるものがあるではないか。)

 

このhospitalityを遡った語源である

hostisについて、

エミール・バンヴェニスト(1902 ~ 1976)という言語学者の解釈を紹介する。

 

 

ーーーーー

「非ローマ人が残らず hostis だと言われていたわけではないのである。

この他所者と ローマ市民たちとの間には平等・相互関係が築かれていた。

客人歓待制度の正確な概念は まさにここに由来するものと思われる。」

 

換言すれば、hostis とは《互酬関係にある者》 を意味するのであって、

これが客人歓待制度の土台となっていたのだ。」

ーーーーー

 

 つまりこれを現代に置き換えると、

訪問者/提供者側の関係性が平等・相益関係でない限り、

訪問者は「好ましい余所者=客人」とは見なされない

ということだ。

 

 言い換えると、

ホスピタリティは、

訪問者/提供者の関係性が平等・相益関係である

という前提が守られている状況下でしか

成立し得ないのだ。

 

 

 

 

そうすると、「お客様は神様か?」というテーマに対する結論は

以下のふたつのいずれかになるだろう。

 

 

①「お客様は人間だ」

 

 ②「提供者も神様だ」

 

 人間にしか「客」になる権利は与えられないのだ。

その唯一の例外は、提供者が神様であることだ。

 

 

最後に。

 

 人間である僕はやっぱり人間同士の付き合いを大切にしたいので、

①を推す立場を採る。

 

 「お客様は神様だろう!?」と尋ねる「訪問者」もきっと、

別に自分のことを本当に「神様」扱いしてほしい訳ではなくて、

「ひとりの人間として抱いている感情を誰かに分かって欲しい」

だけなのだろうと感じる。

 

 そんな時は是非、小さな店のカウンター席で語り合おうじゃないか。