真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

「配慮」と「遠慮」と「恥じらい」と。

 

 

久々の投稿である。

 

 

元来の「アウトプット欲はあるものの、出す前に思考を働かせすぎる」

という傾向が、ここぞとばかりに足枷となっている日々が続いてきた。

 

 

ハッキリと言おう。

アウトプットすることが怖かったのだ。

 

 

所詮、文字は文字であり、文章は文章だ。

表現したいもの全てを表現するにはあまりに制約と限界がある手段である。

それに輪をかけて僕の書き手としての表現力の乏しさと来れば、以下省略だ。

 

 

何より、僕が文章を書き進めているときには、

あらゆる人間たちの顔が頭に浮かんできてしまう。

 

 

「そう言えば今あいつ、これに近いテーマで悩んでいたよな」

「確か今はああやって考えていたから、これを読んでしまったら

せっかく進んでいる思考の邪魔になってしまうかもしれないな」

 

「これを書くには自分が体調を崩すまでの経緯を書く必要があるよな」

「ただ、これを前職のあの人やあいつが読んだらどんな気持ちになるだろう」

 

 

といった具合である。

 

 

困ったことに、顔が浮かぶのは決まって僕が大好きな人間ばかりだ。

そして更に困ったことに、その「大好きな人間」の数が多過ぎるのだ。

 

 

「大好き」と表現する程にはそれぞれの思考回路もある程度分かるし、

決して少なくない時間接してきた分、ある程度の部分までは想像も及ぶ。

 

 

 

想像が及んでしまった以上、それを無視することは自分にはできない。

 

 

要するに、「誰かが傷つくであろう」可能性を認識している中で

自分の意のままに「誰かが傷つくであろう」文章を書くことが怖かったのだ。

 

 

過去に投稿した記事も全て、推敲に推敲を重ねて

「あの人が傷つくかもしれない」という要素を抜いたものだ。

 

 

しばらく投稿をしていなかったこの期間も、

同様の進め方で下書きまでは何本か書き上げていた。

 

 

ハッキリと言うと、

どの記事も自分で読んでいて気持ち悪いのだ。

 

 

「負けなきゃいいや」な2着狙いの回し打ち麻雀を見ている感覚に近い。

 

 

増してやその文章を書いている張本人である僕は勿論、

どの箇所が、誰の顔を浮かべて、どう削られたものなのかが全て分かる分、

尚更「きもっ…!」となるのだ。

 

 

そのルーティーンを続けるうちに、嫌気がさして手が止まってしまった。

 

 

 

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しかしここ1週間で、この自分の姿勢や心持ちについて

おおいに考えさせられる出来事が重なった。

 

 

まず、可愛がってもらっている先輩と飲んでいて、叱られた。

「常に態度がキッチリし過ぎだ」と。

「気の回し方が届き過ぎていて逆に怖い」と。

 

 

曰く、

 

「俺らからどれだけ行っても最後の距離だけが縮まらないから正直寂しいよ?」

 

「いつも細かい何まで気を回してくれるから、俺としては

“楽にして楽しんでほしいな”と思って気付かれる前に先にやろうと思ってるけど、

そう思っていることすら気付いて先回りされたらどんどん気の遣い合いになる」

 

「俺らのことを尊敬も尊重もしてくれてるのは本当に嬉しいけど、

もうこういう関係性の仲なんだから、もっと失礼なこともしてほしい。

ちょっと位雑で、何なら迷惑を掛けてくれる位の方がお前も俺らも楽にできるじゃん」

 

 

その後は「敬語禁止」「メニューを差し出すの禁止」「1回破るごとに1杯一気飲み」

というゲームになり、結局3杯一気飲みをするハメになったが、

言ってもらえたことは「確かに真理だな」と考えさせられた。

 

 

「配慮」が行き過ぎると「遠慮」になって首を絞めることになるし、

「配慮をしない」という「配慮」の形もあるのだと。

 

 

 

 

これがひとつ。

 

 

 

 

もうひとつは、2年6ヶ月お付き合いをしてきた相方と

コンビを解散することになったことだ。

 

 

勿論「解散しよう」と言われた理由はひとつだけではないのだが、

そのひとつはまさに先輩に言われたことと全く同じと言っても良いことだ。

 

 

 

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先輩に対する態度しかり、元・相方との関係性しかり、

もとい、物書きに対するあれこれしかり、

自分には過去の生い立ちや経験から癖付いてしまっているものが沢山ある。

 

 

癖である分、すぐにガラッと転換できるものではないだろうし、

全てを転換してしまう必要は無いのだろうとも感じるが、

「考え方や姿勢を少しアップデートしてみても良いのかもよ?」

と言われている時期なのだと思う。

そして、それはきっと必要なことなのだとも思う。

 

 

 

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言ってしまえば、「この人を傷つけない」「この人に楽にいてほしい」

と考えながら動いた結果、「あの人を傷つけ」、「あの人の首を絞めた」訳である。

 

 

態度や言動の意味は、各個人の認識と、何より関係性の中で決まるものだ。

それを重々に分かっていたにも関わらず、自分に至らないところがあり、

皮肉で矛盾した結末を招いてしまったことは本当に大きく、ほろ苦い薬となっている。

 

 

 

きっと、文章もそうなのだろう。

 

 

 

言葉の定義が、各個人の認識と関係性の中で決まるものなのであれば、

それは画一的なものでもなければ、「一度決まればそのまま」というものでもない。

 

 

認識も、関係性も、何より人間自身も常に変化をしていくからだ。

 

 

「誰も傷つけない」なんて、

①関わっている各個人の認識を完全に把握できている

②関わっている各個人との関係性を完全に築けている

③上記2つが未来永励変化しないものである

という条件が全て揃いでもしない限り、きっと不可能なものだ。

 

 

思い上がりも甚だしかったと、切に思う。

 

 

 

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これからも、僕は大好きな人間たちの顔を思い浮かべながら

文章を書いていくのだろうと思う。

 

 

でも、その人間の存在、だけではなく、

変化に対する尊重をこれまでより少し前面に出して、

ほんの少しの勇気をトッピングしてみようと思う。

 

 

その結果、もし互いにモヤモヤすることがあれば、

一緒に飲む酒で洗い流したいと思う。

 

 

そんな配慮の形も、もしかすると悪くないのかもしれない。

(やってみんと分からんが。)