真幸くあらばまた還り見む

問い浮かべ、悩み答えてまた問うて。苦しゅうなく書いてゆきます。

「配慮」と「遠慮」と「恥じらい」と。

 

 

久々の投稿である。

 

 

元来の「アウトプット欲はあるものの、出す前に思考を働かせすぎる」

という傾向が、ここぞとばかりに足枷となっている日々が続いてきた。

 

 

ハッキリと言おう。

アウトプットすることが怖かったのだ。

 

 

所詮、文字は文字であり、文章は文章だ。

表現したいもの全てを表現するにはあまりに制約と限界がある手段である。

それに輪をかけて僕の書き手としての表現力の乏しさと来れば、以下省略だ。

 

 

何より、僕が文章を書き進めているときには、

あらゆる人間たちの顔が頭に浮かんできてしまう。

 

 

「そう言えば今あいつ、これに近いテーマで悩んでいたよな」

「確か今はああやって考えていたから、これを読んでしまったら

せっかく進んでいる思考の邪魔になってしまうかもしれないな」

 

「これを書くには自分が体調を崩すまでの経緯を書く必要があるよな」

「ただ、これを前職のあの人やあいつが読んだらどんな気持ちになるだろう」

 

 

といった具合である。

 

 

困ったことに、顔が浮かぶのは決まって僕が大好きな人間ばかりだ。

そして更に困ったことに、その「大好きな人間」の数が多過ぎるのだ。

 

 

「大好き」と表現する程にはそれぞれの思考回路もある程度分かるし、

決して少なくない時間接してきた分、ある程度の部分までは想像も及ぶ。

 

 

 

想像が及んでしまった以上、それを無視することは自分にはできない。

 

 

要するに、「誰かが傷つくであろう」可能性を認識している中で

自分の意のままに「誰かが傷つくであろう」文章を書くことが怖かったのだ。

 

 

過去に投稿した記事も全て、推敲に推敲を重ねて

「あの人が傷つくかもしれない」という要素を抜いたものだ。

 

 

しばらく投稿をしていなかったこの期間も、

同様の進め方で下書きまでは何本か書き上げていた。

 

 

ハッキリと言うと、

どの記事も自分で読んでいて気持ち悪いのだ。

 

 

「負けなきゃいいや」な2着狙いの回し打ち麻雀を見ている感覚に近い。

 

 

増してやその文章を書いている張本人である僕は勿論、

どの箇所が、誰の顔を浮かべて、どう削られたものなのかが全て分かる分、

尚更「きもっ…!」となるのだ。

 

 

そのルーティーンを続けるうちに、嫌気がさして手が止まってしまった。

 

 

 

・・・・・・・・・・・

 

 

 

しかしここ1週間で、この自分の姿勢や心持ちについて

おおいに考えさせられる出来事が重なった。

 

 

まず、可愛がってもらっている先輩と飲んでいて、叱られた。

「常に態度がキッチリし過ぎだ」と。

「気の回し方が届き過ぎていて逆に怖い」と。

 

 

曰く、

 

「俺らからどれだけ行っても最後の距離だけが縮まらないから正直寂しいよ?」

 

「いつも細かい何まで気を回してくれるから、俺としては

“楽にして楽しんでほしいな”と思って気付かれる前に先にやろうと思ってるけど、

そう思っていることすら気付いて先回りされたらどんどん気の遣い合いになる」

 

「俺らのことを尊敬も尊重もしてくれてるのは本当に嬉しいけど、

もうこういう関係性の仲なんだから、もっと失礼なこともしてほしい。

ちょっと位雑で、何なら迷惑を掛けてくれる位の方がお前も俺らも楽にできるじゃん」

 

 

その後は「敬語禁止」「メニューを差し出すの禁止」「1回破るごとに1杯一気飲み」

というゲームになり、結局3杯一気飲みをするハメになったが、

言ってもらえたことは「確かに真理だな」と考えさせられた。

 

 

「配慮」が行き過ぎると「遠慮」になって首を絞めることになるし、

「配慮をしない」という「配慮」の形もあるのだと。

 

 

 

 

これがひとつ。

 

 

 

 

もうひとつは、2年6ヶ月お付き合いをしてきた相方と

コンビを解散することになったことだ。

 

 

勿論「解散しよう」と言われた理由はひとつだけではないのだが、

そのひとつはまさに先輩に言われたことと全く同じと言っても良いことだ。

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

先輩に対する態度しかり、元・相方との関係性しかり、

もとい、物書きに対するあれこれしかり、

自分には過去の生い立ちや経験から癖付いてしまっているものが沢山ある。

 

 

癖である分、すぐにガラッと転換できるものではないだろうし、

全てを転換してしまう必要は無いのだろうとも感じるが、

「考え方や姿勢を少しアップデートしてみても良いのかもよ?」

と言われている時期なのだと思う。

そして、それはきっと必要なことなのだとも思う。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

言ってしまえば、「この人を傷つけない」「この人に楽にいてほしい」

と考えながら動いた結果、「あの人を傷つけ」、「あの人の首を絞めた」訳である。

 

 

態度や言動の意味は、各個人の認識と、何より関係性の中で決まるものだ。

それを重々に分かっていたにも関わらず、自分に至らないところがあり、

皮肉で矛盾した結末を招いてしまったことは本当に大きく、ほろ苦い薬となっている。

 

 

 

きっと、文章もそうなのだろう。

 

 

 

言葉の定義が、各個人の認識と関係性の中で決まるものなのであれば、

それは画一的なものでもなければ、「一度決まればそのまま」というものでもない。

 

 

認識も、関係性も、何より人間自身も常に変化をしていくからだ。

 

 

「誰も傷つけない」なんて、

①関わっている各個人の認識を完全に把握できている

②関わっている各個人との関係性を完全に築けている

③上記2つが未来永励変化しないものである

という条件が全て揃いでもしない限り、きっと不可能なものだ。

 

 

思い上がりも甚だしかったと、切に思う。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

これからも、僕は大好きな人間たちの顔を思い浮かべながら

文章を書いていくのだろうと思う。

 

 

でも、その人間の存在、だけではなく、

変化に対する尊重をこれまでより少し前面に出して、

ほんの少しの勇気をトッピングしてみようと思う。

 

 

その結果、もし互いにモヤモヤすることがあれば、

一緒に飲む酒で洗い流したいと思う。

 

 

そんな配慮の形も、もしかすると悪くないのかもしれない。

(やってみんと分からんが。)

 

 

 

 

 

「どうとく」という冒涜 -後編-

 

 

 

昨日書いた内容の続きである。

 

 

▼昨日の記事

↓↓

hp240.hatenablog.com

 

 

 

『星野くんの二塁打』については、広く知られている解釈として

「事前に合意したものを無視して勝手な行動をすると、

周囲に迷惑を掛けてしまうケースがある、ということを伝えている」

というものが挙げられている。

(とは言え、望んでいた結果が出てしまっているので、

「伝わりづらいわ!」という声も根強くあるそうだが。)

 

 

 

僕個人としては、(かなりこじつけて寄せた解釈として)

「個人間で協議の上約束した内容を反故にしてしまった時に、

約束した相手はどのように感じるのか」を考える話である…

という可能性もあり得なくはないと捉えている。

 

 

 

しかしいずれの解釈をするにせよ、どこか腑に落ちない。

「何のために?」という基準で考えた際に、どうしても腑に落ちないのだ。

 

 

 

監督は、「チームの勝利のため」に星野くんにバントを指示した。

 

 

星野くんは、とっさの判断でバットを振りぬくことを選択したが、

それも「チームの勝利のため」である。

 

 

そして、チームは勝利した。

 

 

共通の目的のために採った行動によって、その目的は達成された訳だ。

 

 

その末路が、

「ぼくは、こんどの大会に星野くんの出場を禁じたいと思う。 

とうぶん、きんしんしてもらいたいのだ。

そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。 

しかし、それはやむをえないことと、あきらめてもらうよりはしかたがない。」

という監督の決断である。

 

 

 

この言葉に込められた監督の意図を、ふたつ想像している。

 

 

 

ひとつは、「星野くん自身の成長を思って…」というもの。

ひとつは、「指示と合意を反故にしやがって…もうコイツは信用できん」というもの。

 

 

僕の意見は、いずれにせよ「とっとと監督をお辞めになりなさい」である。

 

 

前者の場合だと、

試合中は「チームの勝利のため」に星野くんに指示を出したにも関わらず、

その結果を受け、事後になって「星野のため」と論理のすり替えを行っている。

 

 

僕ならばこういう監督について行きたくない。

いちいち目的をコロコロ替えられてはたまったものではないからだ。

 

 

後者の場合も、「チームの勝利のため」というそもそもの目的を

彼個人の感情の問題によって見失っている。

 

 

ひとりの人間として感情は理解できるが、監督の器ではないだろう。

(そして「理解できる」とは言ったものの、到底納得できるものではない。)

 

 

 

僕が『星野くんの二塁打』に対して持っている

解釈のメイン対象は、

「星野くん」ではなく「監督」側なのだ。

 

 

 

(※補足しておくと、

この教材が「道徳」の授業教材として使われていたのは数十年前の話である。

そもそもの話の内容に対して感じる部分がある方もいらっしゃるとは想像するが、

当時と現在とでは社会の前提も変化しているし、その中で

あくまで当時の社会の中で、小学生を対象に広く用いられていた教材である、

という前提を念頭に置いておきたい。)

 

 ここまで述べたのはあくまで僕の所感であって、「正解」ではない。

 

解釈の主体の置き場も十人十色であるし、

同じ主体に対しても様々な解釈の広がりがある。

 

「それで良いのでは?」と感じるのは僕だけだろうか。


・・・・・・・・

 そもそも、「道徳」とは何なのだろう。 

 

例のごとく辞書を引用すると、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、

 守り従わねばならない規範の総体

 外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、

 自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

②小・中学校の教科の一。

 生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの。

 昭和33年(1958)に教科外活動の一つとして教育課程に設けられ、

 平成27年(2015)学習指導要領の改正に伴い「特別の教科」となった。

③《道と徳を説くところから》老子の学。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

とある。

 

 

 

③の「老子道徳経」についての話はここでは割愛して、

①の意味を中心に考えてみたい。

 

 

 

この「善悪をわきまえて正しい行為をなす」という部分の

「善悪」「正しい」という部分が実に厄介なのだ。

 

 

 

先程の話を例に挙げると、僕の場合は、

チームメイト、監督を含めたチーム全員と一緒に「勝利」を目指している中で、

絶好球が来た瞬間に「勝利」のために打つ選択をしたことを

「悪」であるとはとても言えない。

 

 

しかし、その瞬間、「さっきの合意と違うことをしたら監督はどう思うだろう…」

と考えて行動することも「悪」とは言えない。

 

 

ただ、「そんな諸々を考えに考えた上で行動した」という

星野くんの姿勢は全力で肯定したくなる。

 

 

逆に、(僕が想像している範囲で)監督の最終的な姿勢は、

僕の中ではどうしても「善」たり得ない。

 

 

 

そもそも、

「善」「悪」「正しさ」…

それぞれをハッキリと区別して決めてしまう姿勢が

本当に「規範」なのだろうか。

 

 

 

むしろ、

それぞれの人間ごとに「善」「悪」「正」の基準があること。

その基準に至るまでにはそれぞれの体験の積み重ねがあること。

そして、「善」「悪」「正」と結論付けてしまう前に、

まだ自分が考えもしなかったような解釈の可能性がいくつも存在すること。

 

 それらを体感して認識し続けていきながら、

その積み重ねの中でひとつずつ自分なりの判断を紡いでいく姿勢の方が、

個人的にはよほど「規範」であるように感じてならないのだ。

 

・・・・・・・・・・・

  

先日、某テレビで小学校の道徳の授業が特集されていた。

  

「家族愛」をテーマにした授業で、

「母親の家事労働は無償だ」「家族に対価を求めないのは当然である」

という論調がその場を支配している中で、ひとりの生徒が

「お母さんも家事に対してお金をもらいたいのではないか」

「子どもは偉いことをするとお金がもらえる。子どもっていいな、って」

という意見を発信した一幕があった。

 

彼の両親は共働きで、母親は働きながら家事をしている。

そんな母親のことを想っての発言だったのだが、

教師が「でもそれは…(以下省略)」と遮ると同時に、

他の生徒たちも同調して、その子の意見は黙殺されてしまった。

 

以降の時間、彼は目に涙を浮かべたまま、一言も発することはなかった。

 

これが、「規範」だろうか。

これが、「道徳」だろうか。

 

 僕はそうは思えない。

彼に対する「冒涜」だと感じてしまう。

 

 放送内容からはうまく読み取れなかったのだが、

教師の方にもきっと思惑や事情があったのだと想像している。

(これについては今日以降も想像を続けていきたいと思っている。)

 

 「道徳」を「授業」する、ということの構造的な問題もあるのかもしれない。

(「授業」は「学校などで、学問や技芸を教え授けること」という意味だ。)

 

 ただ、やはり僕はどうしてもあの授業の様子に、

星野くんと監督が重なってしまって仕方がないのだ。

 

オチとして、その理由を明かす。

ひとえに小学生時代、「どうとく」の授業に良い思い出がないからだ。

(特に3、4年生の頃である。)

 

僕の地域は今思えば、その土地独特の様々な「大人の事情」を含んだ

「どうとく」の授業内容を展開していたが、その内情と言えば、

担任の先生の意にそぐわない発信をすると

「そういう風に考えてしまうこと自体が間違っている」と封殺される。

しかもテストまであり、「どう思いますか?」という問題にマルバツがついた。

 

 勿論点数が悪いので、親にはテストの存在すら知らせないまま見せずにいると、

何も知らない状態の母親は保護者面談の場でいきなり担任から

「息子さんは常識や道徳心がない」とお叱りを受けるのだ。


「普段の学校生活でよっぽど素行が悪いのだ」と勘違いしたまま

帰ってきた母親に国語辞典で頭の形が変わるまでボコボコに殴られたことは生涯忘れない。

 

・・・・・・・・・・・

 

現在の「学習指導要領解説」では、

・特定の道徳的価値を教え込んではいけない
・これからの道徳は考え、議論する道徳でなければいけない

と記載されているそうだ。

 

 

 

くれぐれも「ど」と「ぼ」を読み違えないことを、切に望む。

 

 

 

 

「どうとく」という冒涜 -前編-

 

 

 

スポーツ観戦が大好きだ。

 

 

水泳、体操、卓球、バレーボール…

過去経験したこれらのスポーツ中継は飽きることなくいくらでも観ていられるし、

ワールドカップ南アフリカ大会を機にサッカー観戦にも面白みを感じ始めた。

 

 

弟がアメリカンフットボールをやっていたので、

「彼との話のタネが増えれば」と思いテレビ観戦を始めてみると、

これまたすっかりハマった。

 

 

「そう言えばアメフトとラグビーの違いって何だ?」

という疑問をきっかけに、ラグビーも面白く感じ始める始末である。

 

 

 

しかし、何と言っても野球である。

 

 

 

野球中継がある日には必ず観戦しながらソファに座っているし、

ご飯のおかわりをつぎに行くタイミングは決まってCM中だ。

 

 

そして年に数回は球場に足を運び、

夜空を照らすカクテルライトの下、しこたま飲みながら

ワンプレー毎に「これでもか」とはしゃぎ倒している。

(飲んでいるせいでトイレが近くなり、ホームランを見逃した経験も2度ある。)

 

 

増してタチが悪いことに、昔から高校野球も大好きだ。

 

 

だから、野球経験は酒を飲みながらの草野球しかない癖に、

各選手のウンチクはプロ入り後のものは勿論のこと、

プロ入り前のものも一通り言うことができてしまう。

 

 

どのスポーツでも同じようなところがあるように感じるが、

こと野球においても、アマチュア時代には4番バッターとして

ホームランをバカバカ打ってブイブイ鳴らしていたような選手が、

プロでは常にバントを求められる存在として役割を果たしていたり、

「守備の人」- 試合終盤の守備固め要因として活躍していたりする。

 

 

「実力社会ゆえの椅子取りゲーム」とも表現できるかもしれないが、

何はともあれ、団体競技ゆえの適材適所を、

それぞれがまさに「プロフェッショナル」として全うしている。

 

 

 

ある現役選手のエピソードで、このようなものがある。

 

 

 

その選手の高校時代の通算ホームラン数は、

あの松井秀喜選手や清原和博選手のそれよりも多い。

 

 

しかし彼は今、プロ野球の世界で2番打者として役割を全うしており、

レギュラー定着後6年間のうち4年間でリーグ最多の送りバント数を記録している。

 

 

ある日の試合、彼の地元の友人たちが試合を観戦しに来た。

 

 

高校時代、「怪童」と呼ばれた選手に対して友人たちは

豪快なバッティングを期待しながら応援している。

 

 

ノーアウト、ランナー1塁の場面で彼の打席が回る。

 

 

監督からのサインはなし。

「今日は好きに打ってこい」という、粋な計らいだ。

 

 

しかし彼は淡々と送りバントを決め、ランナーを次の塁に進めた。

彼の次の打者がヒットを放ち得点。

それが結果的に決勝点となり、その日チームは勝利した。

 

 

試合後にその選手が

「後ろの選手の力量を考えると、ああする方がチームの勝利に繋がると思ったので」

と語る姿を見て、監督は「まさにプロだ」と感動したそうだ。

 

 

「何のために」− まさにこれを考えさせてくれるエピソードのように感じる。

 

 

 

 

…では、このようなケースはどうだろうか。

 

 

 

 

舞台は小学生の野球チーム。

 

 

「星野くん」という野球少年は、

このチームのエースピッチャーで8番バッターだ。

 

 

ある試合で彼に打順が回ってくる。

最終回、ノーアウト、ランナー1塁という場面だ。

 

 

試合は今、1点差で負けている。

 

 

ここで監督から出た指示は「送りバント」。

「バントでランナーを進めて、1アウト2塁にしろ」という意味だ。

 

 

星野くんは、ここまでの打席ではいずれも凡退。

しかし、凡退のなかで相手ピッチャーが投げる球の感覚を得ている実感があった。

 

 

そこで「打たせてほしい」と交渉するが、監督は、

 

 

「『打てそうな気がする』くらいのことで、作戦を立てるわけにはいかないよ。

ノーダンなんだから、ここは、正攻法でいくべきだ。」

 

 

チームが勝つために星野くんも了解する。

 

 

ピッチャー、投げる。

 

 

「これは…!」

 

 

その球は、星野くんが得ていた感覚にピタリと当てはまる絶好球。

星野くんは思わずバットを振り抜いた。

 

 

打球は外野に転々と転がり、2塁打に。

ランナーが還り同点。

 

 

なおもノーアウト2塁の場面で次の打者が放った打球により

星野くんがホームに還り、逆転サヨナラ勝利。

 

 

チームみんなで喜びを分かち合う。

 

 

 

・・・・・・・・・・・

 

 

 

この話には続きがある。

 

 

その試合後、監督はこのような決断を下す。

 

 

 

「ぼくは、こんどの大会に星野くんの出場を禁じたいと思う。 

とうぶん、きんしんしてもらいたいのだ。

そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。 

しかし、それはやむをえないことと、あきらめてもらうよりはしかたがない。」 

 

 

 

 

…これは、かつて小学校の「道徳」の授業で用いられていた

『星野くんの二塁打』という教材の内容である。

 

 

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今日はバテたのでここまで。

 

 

 

 

空白期間から取り戻した「主客」の関係

 

 

 

ここ最近脳ミソの調子が思わしくなく更新を止めていたが、

本日から再開をしてみることにした次第である。

 

 

現在絶賛人生療養中の身でもある僕は、現在の生活のテーマとして

「感覚←→表情←→身体の動きの一致」を掲げている。

詰まるところ、「脳ミソと表現の一致」である。

 

 

 

その脳ミソが最悪のコンディションだった訳で、

結局身体共々何も機能していなかったという顛末だ。

 

 

 

僕は文章表現を愛している。

しかし、まだ自分の文章表現を好きになることはできていない。

 

 

 

そもそもよく考えてみると、僕は小さな頃からずっと

「文章という表現手段に依存し続けてきた」

とも言うことができる。

他の表現手段がからっきしダメだったからだ。

 

 

 

まずは「ベシャリ」。

何だかんだキャラクターでやり過ごしてはきたものの、

本来周囲の人間の目線や関心がこちらに向いている感覚が苦手なので、

できる限り口を開かずにその場が過ぎ去ることを望んできた。

口を開くのは、どうしても許せないことに対してディベートを挑むときだけ。

そんな状態が20歳頃まで続いていた名残で、今も苦手意識が強い。

ダメ。

 

 

次に「絵」。

小学校時代、

描いた絵に対する教師の評価は「うん…豪快やね…」、

親からの評価は「ヘッタクソwww」。実に残酷な世界である。

中学校時代に至っては真剣にデッサンに取り組んでいたところ、

いきなり後ろから「真面目に描け!」と美術教師に殴り倒された。

それ以来、絵に関しては冗談抜きでイップス状態である。

これもダメ。

 

 

「音楽」。

演奏できるのはリコーダーだけ。歌唱力もない。

そもそも前述のように多数の人間の目線が向いている環境で

何かを表現することが大きなハードルとしてのし掛かる。

やっぱりダメ。

 

 

最後に「暴力」。

僕の数少ない表現手段であったように思う。

しかしこれも19歳で卒業した(その理由については改めて別に書きたい)。

ダメ、と言うより論外である。

 

 

 

そのような中で、

現在も生き残っている表現手段が「文章」だけなのだ。

 

 

 

 小さな頃から本を読む機会が多かったこと、

その中で出逢う言葉に救われた経験があったこと。

今思えば、それらも大いなる影響をもたらしているだろう。

 

 

それより何より、

読んでいる文章と僕が交わっている時間は誰にも邪魔されない。

自分のペースで考え事をしながら、自分の思うままに言葉に落とす時間もまた、

誰にも邪魔されない、自分だけのものだ。

 

 

必然的に、

自分の感覚の再現率が最も高い表現手段が

僕にとっては「文章」となり果てていった

訳である。

 

 

 

今年に入ってからはやめてしまったが、昨年まで僕は

高校卒業後の18歳の5月から10年以上、毎日日記をつけていた。

 

 

「文章を書く時間に救いや憩いを求めていたから」であり、

同時に「当時の自分の感覚から今を紡ぐため」であった。

 

 

それ程に文章という表現手段の再現率に信頼を置いていたし、

文章を書く時間に救われてきた訳である。

 

 

 

…そして、依存もしてきた。

 

 

 

この療養期間中、いかに「脳ミソと表現の一致」を図るかという事案において、

何の疑いもなく真っ先に頭に出てきた手段が「当ブログの開設」だった。

 

 

毎日記事を投稿しながら、確かに一定の充足は感じていた。

しかし、どこかにストンと腑に落ちない部分があったことも確かだ。

 

 

それが「疑いもなく文章を表現手段として選択していること」にある、

と気付くまでそう時間は掛からなかった。

 

 

気付いたのは、この記事を書いた翌日だ。

 

 

hp240.hatenablog.com

 

 

今見てみても、結果的には「よく書いた記事だ」と言えるものだが、

今思い返すと書いている間の感覚もかなり独特なものだった。

 

 

一言で言うと、

「文章に脳が乗っ取られている」感覚

とでも言うべきだろうか。

 

 

言わば、「言葉に落としてしまうと野暮になってしまうもの」さえも

限界まで言葉を尽くして表現しようとし過ぎている箇所がある。

 

 

「文章表現」という枠組みで見てみると

「この表現がよくスッと出てきたな」と自分でも感じる文だが、

親玉である感覚と照らし合わせてみると、これが大変野暮ったいのだ。

 

 

 

…そういった顛末で、少し文章に落とす行為に怯えるようになり、

しばらくはパソコンから離れていたのがここしばらくの期間である。

 

 

 

この期間中に何をしていたかと言うと、

イップスのお陰で変なペンの持ち方になりながら久々に絵を描いてみたり、

普段は全く撮らない写真を撮ってみたり、

一切何も参照しない状態で思うがままに新しい料理メニューを開発してみたり、

とにかく「文章」という手段を捨てた縛りプレイで実験をしていた。

 

 

 

ひとつひとつの細かい検証結果は端折るが、得てして収穫は、

「依存しない状態で適切に、

これからも文章と付き合っていける」という確信

だった。

 

 

 

絵、写真、そして料理。

それ意外にもマンガやアニメなどなど。

それぞれに「こういう部分の表現はこの手段が秀でてんなぁ」

と感じる部分があり、それをまさに「体感」できたことで、

文章という手段に対しても俯瞰して眺めることができた期間だった。

 

 

 

何より、

「表現している主体は自分の存在そのものである」

という大前提を認識できたことが最も大きい。

 

 

 

そんな今、改めて声を大にして言いたい。

 

 

僕は文章表現を愛している。

 

 

そして、自分の文章表現を「好きだ」と言える日を目指してみたい。

 

 

空白期間以前より、その日は近くなっている気がする。…多分。

 

 

 

 

 

【番外編】「卒業」への手向けとして

 

 

 

基本として

「筆者が常日頃疑問に思っている小ネタを改めて考察してみる」

という探偵ナ●トスクープ的な姿勢を採っている当ブログだが、

今日は番外編として、とある集団の人間たちに対する手向けを短めに記す。

 

 

・・・・・・・・

 

 

「卒業」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

①学校の全課程を学び終えること。

②ある段階や時期を通り過ぎること。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「終わり」を迎え、区切りを意味するのが①であるとするならば、

②には「通過点」としてこの先を見据える意味が含まれていると言える。

 

 

学校の「卒業式」それ自体は文字通り①を祝いねぎらう舞台であろうが、

「卒業」を迎えたあなたは②も強く意識し、噛み締めていることと想像する。

 

 

 

 

私事ではあるが、僕が最後に「卒業」を経験したのは約10年前の高校卒業になる。

 

 

頭脳、行動の両面待ちで役満をアガれる程に多くの問題を抱えていた当時の僕は、

まず①の意味での「卒業」をできるか自体が怪しい状況だった。

「卒業証書」という紙切れ1枚を手に入れるためにとりあえず帳尻を合わせた訳だ。

 

 

お察しの通り、それまでの高校生活3年間は自分にとって

「積み上げた」という実感を持てるものが何もない時間だった。

 

 

だから卒業式の日、A3サイズの紙を仰々しく渡されても誇らしさも感じなければ、

何ひとつ心が動く要素すらなかった。あの感覚は生涯忘れないだろう。

 

 

当然②のような「この先を見据えた通過点」という実感も皆無だった。

僕には「卒業」に込められているべき積み重ねも、この先の未来もなかったのだ。

人生最後の「卒業」は、空っぽで、何も詰まっていないものだった。

 

 

 

 

だから、「卒業」に際して笑えている人間、泣けている人間、

そんな人間たちのことを羨ましく感じるとともに、尊敬してやまない。

 

 

それだけの積み重ねを自分自身で感じられていること。

その積み重ねがあったからであろう持てている先を見据える眼。

それらはあなた自身が紡ぎに紡ぎ、手に入れたものだ。

 

 

僕に「どうか誇りを持ってください」などと野暮なことを言われずとも、

誇りも、その他の言葉にならない実感も既に持っていることと想像する。

 

 

 

 

僕からは替わりに、文学狂として歌をふたつ贈りたい。

いずれも樋口一葉さんの歌である。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

何となく 友の恋しき夕べかな 松風寒き よもぎふの宿

極みなき 大海原へ出でにけり やらばや小舟 波のまにまに

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

意味は何となく感じておくれ。

 

 

それではまた飲み屋で。

 

 

「お客様は神様」なのか真剣に考察してみた

 

 

 

 

 

僕は酒が好きだ。

飲みに出かける日にはついつい歩幅が大きくなる。

 

 

特にひとりで飲みに行く店は

①小さな店でカウンター席がある

②店の人間がラフ、フラットである

③勿論メシがうまい

という条件が揃っていると好ましい。

 

 

元来、僕はかなり人見知りをする人間である。

見た目やキャラクターの力で気付かれずにやり過ごせることは多いものの、

その裏では「少しでも早くお互いにとって居心地の良い雰囲気を作らないと…!」

と脳ミソに冷や汗をかきながら全身の血管が開きまくっているのが常である。

 

 

そんな人間が、なぜ上記のような条件の店を好むのか。

 

 

ひとえに、人間同士の付き合いを求めているからである。

人見知りにだって、繋がりを求める欲求は存在しているのだ。

 

 

①小さな店でカウンター席がある

と、必然的に店の人間との距離が近くなる。その状況下で

②店員さんがラフ、フラットである

と、僕のような人間にとっては涙が出るほどありがたい。

 

 

「僕はここにいて良いんだ」という安心感で肩の力がフッと抜ける。

そこへ来てメシが美味いとなれば、後日2回目の訪問となるのは必然の流れだ。

 

 

そして、こういった店には必ず「常連」と呼ばれる人間達が居座っている。

 そんな時のカウンター席の威力はもう凄まじい。

 

 

「この間も来てましてたよね?」「家、近いんスか?」から始まり、

行き着く先はカウンター席で肩を並べながらの乾杯。

こんな時の酒は、ほんの少し残っていた緊張をも絶妙な塩梅で洗い流してくれる。

 

 

どうせ同じ「語らう時間」を過ごすなら、机を挟んで向き合いながら過ごすより、

肩がぶつかり合うリスクを楽しみつつ同じ方向を向きながら過ごす方が

話も酒もグイグイ進む。

 

 

果たして、上機嫌でそろそろ帰ろうかという頃には

「飲み友達」がひとり、ふたりとできているという訳だ。

 

 

そんなこんなを繰り返すうちに、

いつの間にか自分もすっかり「常連」と呼んでいただく側に成り果て、

今や「飲み友達」を越えて「仲間」となった連中とやかましくハシゴ酒もすれば、

悩みを打ち明け合いながらしっぽりと涙割りの酒を酌み交わしもする。

 

 

挙げ句の果てには店の人間さえも「飲み仲間」と化してしまい、

彼のオフの日には昼から一緒に飲みに出かける始末。

そんな人生を送る羽目となっている。

 

  

(結局、「街全体が飲み屋」と表現できる程の街で暮らし始めて4年以上になるが、

いつだって飲む店のレパートリーはこんな物語が生まれ続ける3件ほどに収まる。)

 

 

 

今となっては本当に大切なご縁になっている人間が沢山いるし、

今なお新たなご縁が積み重なり続けているが、その原点はひとえに

初めてその店に入った時の、スタッフの方の態度だったと感じる。

 

 

あの瞬間があったからこそ、

他の客連中とも上記のような関係性ができているし、それだけではなく

店の人間とも多くのやりとりが積み重ねられ、大切な仲を築くに至っている。

 

 

「前からもっとゆっくり話したかったんだよね」と言ってもらい、

オーナーが閉店後に一緒に飲んでくれた店もある。

 

 

仕事で悩んでいる時に相談に乗ってもらい、

マスターが一緒に泣きながら一杯ご馳走してくれた店もある。

 

 

 

 

…そして、店の主からよく叱られる店もある。

 

 

 

 

叱られる理由は「言葉遣い」「ふとした時の態度」等様々だ。

 

 

彼の姿勢は常に一貫している。

客がどれだけ長い付き合いであろうと、自分より年齢が上であろうと下であろうと、

彼が「言うべきだ」と思ったことを真っ直ぐに伝える。

 

 

それが原因で、数年来の常連客が来なくなってしまったこともある。

(僕はその一部始終を生で見届けていた。)

 

 

実際、僕も「耳が痛い」どころか「頭を棍棒でどつかれる」レベルのことを言われる。

そしてそれらはいつも憎たらしいほど的を射てくる。

 

 

ただ、僕と彼の間には信頼がある。

だから僕は「自分のことを分かった上で言ってくれている」と捉えているし、

「信頼がある」と言い切れるだけの積み重ねがあるからこそ

毎回それだけ的を射られるのだろう、とも捉えている。

 

 

 

僕は彼、そして彼の店が大好きだ。

その理由は明確だ。

 

 

 

僕のことを一人の人間として扱い、

人間同士の付き合いをしてくれるからだ。 

 

 

 

その店以外では まだ 叱られたことはないものの、

他の店、そしてその人間のことが大好きな理由も全く同じだ。

 

 

 

だから、僕は声を大にして言いたい。

 

 

 

 

「俺たち客は神様じゃない」 と。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「お客様は神様です」というこの言葉。

 

 

由来を調べてみると、この言葉を初めて用いたのは

歌手の三波春夫(みなみはるお)さんらしい。

 

 

「三波さんはお客様をどう思いますか?」という質問に対する返答として

「うーむ、お客様は神様だと思いますね」と仰っている。

 

 

 

曰くその真意は、

 

「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、

心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのです。

ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。」

 

「また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。

だからお客様は絶対者、神様なのです」

 

 

 

つまり、演者側の矜持を表現したものと捉えられる。

 

 

 

聴衆(客)の思惑ではなく、あくまで演者側の心意気

ということだ。

 

・・・・・・・・・

この「お客様は神様です」という言葉と

同様の扱いを受けている概念として、

ホスピタリティ(hospitality)というものが挙げられる。

 

元は提供者側が「大切にしよう」と心がけて持ち始めたものであるにも関わらず、

いつの間にか客側が「あの店はある/ない」を判断するものとなっている。

 

 そもそもhospitalityの意味は、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心のこもったもてなし。手厚いもてなし。歓待。また、歓待の精神。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

というものだ。

 

 hospitalityの語源はラテン語hospesという言葉だが、

この意味を紹介したい。

ーーーーーーーーーー

①主人。

②客。訪問者。

③余所者(よそもの)

ーーーーーーーーーー

 

 この意味から押さえておきたい重要な前提は、

hospitality(もてなし、歓待)には主人/客人の双方が関わっている

ということだ。(当たり前だが。)

 

 問題は、この主人/客人の関係性である。 

  

この関係性について考えるための材料として、

ここからもう一段遡った言葉の起源を紹介したい。

 

先程紹介したhospesという言葉の起源をたどってみると、

hostisという言葉にたどり着く。

 

このhostisの意味は、端的に言うと先程のhospesの③の意味、

つまり「余所者」となるのだが、この中には

ーーーーーーーーーーーーー

①好ましい余所者 =客人

②敵対する余所者 =敵

ーーーーーーーーーーーーー

というふたつの相反する意味が含まれている。

 

そもそも、hospitalityの起源は古代ローマ

「放浪する宗教者や遠来の客人を神の化身とみなして歓待する風習」

 だと言われている。

(まさに三波さんの発言と通ずるものがあるではないか。)

 

このhospitalityを遡った語源である

hostisについて、

エミール・バンヴェニスト(1902 ~ 1976)という言語学者の解釈を紹介する。

 

 

ーーーーー

「非ローマ人が残らず hostis だと言われていたわけではないのである。

この他所者と ローマ市民たちとの間には平等・相互関係が築かれていた。

客人歓待制度の正確な概念は まさにここに由来するものと思われる。」

 

換言すれば、hostis とは《互酬関係にある者》 を意味するのであって、

これが客人歓待制度の土台となっていたのだ。」

ーーーーー

 

 つまりこれを現代に置き換えると、

訪問者/提供者側の関係性が平等・相益関係でない限り、

訪問者は「好ましい余所者=客人」とは見なされない

ということだ。

 

 言い換えると、

ホスピタリティは、

訪問者/提供者の関係性が平等・相益関係である

という前提が守られている状況下でしか

成立し得ないのだ。

 

 

 

 

そうすると、「お客様は神様か?」というテーマに対する結論は

以下のふたつのいずれかになるだろう。

 

 

①「お客様は人間だ」

 

 ②「提供者も神様だ」

 

 人間にしか「客」になる権利は与えられないのだ。

その唯一の例外は、提供者が神様であることだ。

 

 

最後に。

 

 人間である僕はやっぱり人間同士の付き合いを大切にしたいので、

①を推す立場を採る。

 

 「お客様は神様だろう!?」と尋ねる「訪問者」もきっと、

別に自分のことを本当に「神様」扱いしてほしい訳ではなくて、

「ひとりの人間として抱いている感情を誰かに分かって欲しい」

だけなのだろうと感じる。

 

 そんな時は是非、小さな店のカウンター席で語り合おうじゃないか。

 

 

 

 

 

それは本当に「課題」なのか?

 

 

 

告白しよう。

 

 

僕は喫煙者である。

メディアや某自治体の知事から迫害と弾圧を受けている「ホタル族」の残党である。

 

 

喫煙歴もかなり長く、

量も昔と比べると随分減ったとは言え、今でも決して少ないとは言い難い。

20代前半までは平均して1日2箱を吸い込んでいたし、

特に夜を徹して酒盛りや麻雀をする時は凄まじく、平気で3-4箱は消えていた。

(こうなると最早「ヘビー」を超えた「チェーンスモーカー」である。)

 

 

今は平均して1日1箱は行かない程度だが、そんな今でも

飲みに行った先で常連の仲間達と楽しく盛り上がっている間に1箱以上は空くし、

読書をしたり、文字を書いたりする間も欠かせないパートナーとなっている。

 

 

そもそも煙草の本数を減らしたのも決して、

「健康面や経済面に課題を感じた」という類の理由からではない。

あまりにも立て続けにバカバカと吸い続けているうちに、

「俺、何のために煙草吸ってたんやっけ…?」

という原点をすっかり忘れている自分の愚かさに気付いたからである。

 

 

僕にとっての「原点」とは、

①煙草の美味しさをじっくりと味わいながら一息つくため

②楽しい時間(酒席・読書・文字書きetc...)に①を上乗せするため

という2点だ。

 

 

この原点への立ち返りを目指した結果として、

無駄吸いして分散させてしまっていた煙草1本ごとの価値を今一度濃縮させるために

いわば「攻めの削減」をしたと表現できるだろう。

 

 

それ程に、煙草という嗜好品を全力で嗜好している。

 

 

 

 

 

しかし昨今の世の中である。

 

 

 

 

 

特に某自治体の知事に至っては

「あなたの前世は肺だったのか?」

と思わず聞きたくなるレベルで喫煙環境を一掃しようとしている。


新条例の方針は「飲食店も原則禁煙」だとか。さながらゴキブリ駆除の様相だ。

(再度念押ししておくが、我々はケツが煌めくホタルである。

まぁパッと見のフォルムは似ていなくもないが…。)

 

 

まぁ個人的に思う部分は多々あるものの今は一旦さて置き、

それより僕が毎回色々と考えさせられるのは、日常生活の中で受ける質問に対してだ。

 

 

おそらく喫煙者はこれに準じた内容を一度は尋ねられたことがあるだろうし、

非喫煙者は一度は喫煙者に対して尋ねたことがあるだろう。

 

 

 

 

「何で煙草やめないの?」と。

 

 

 

 

まず前提を先に述べておくと、僕はこの質問自体に何も不満は抱いていない。

むしろ場面によっては必然の質問でさえあるとも感じる。

 

 

その「必然の場面」とは、例えば

喫煙者側が「禁煙したいと思っている」という意思表示をしながら

しみじみと遠い目で煙草を吸い込んでいる場面のことだ。

 

 

しかし、相手が僕のようなヤニフェチだとしたら話は変わる。

 

 

何故なら、こちらはそもそも

「禁煙したい」という意思を持ち合わせていないからだ。

 

 

実際に聞かれた場面でも僕はその旨を返答しているが、

それを受けて2回に1回はこのような言葉を頂戴する。

 

 

 

 

「でも条例もあるし、煙草も値上がりするし…」

 

 

 

 

そこで「うーん確かに…」という発言をする喫煙者もいるかもしれないし、

そうなると例えば「じゃあどうしたら禁煙できるか?」という課題について

一緒に考える時間に発展しうる、非常に意義のある提起だ。

 

 

ただ、喫煙を続ける方針を採っている、つまり、

「喫煙」という行為をそもそも「課題」として捉えていない僕にとっては

「条例」や「値上がり」も課題設定の材料にはなり得ない

(無論、「安心して喫煙を続ける上の障壁」として捉えられるものではあるが。)

 

 

 

 

上記の喫煙云々は完全に個人的な事例に過ぎないが、他にも

当事者が「課題」と捉えていない事象に対して

外部が勝手に課題設定をするというケースがある

ように感じるのは僕だけだろうか。

 

 

 

・・・・・・・・

 

 

 

例の如く「課題」という言葉の意味を某辞書で参照してみる。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①与える、または、与えられる題目や主題。

②解決しなければならない問題。果たすべき仕事。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

これを見て僕が思い浮かんだのは、よく聞く「課題解決」という言葉についてだ。

 

 

これまでこの言葉を「今ある問題に対して解決を図ること」と解釈してきたが、

この「課題」の意味を見る限り少し認識を変える必要があるように感じるのだ。

 

 

何故なら、「課題」という言葉自体に既に

「問題を設定し与える」という意味合いが含まれているからである。

 

 

その意味合いを加味すると、「課題解決」とは

「問題を設定し与えた上で解決を図ること」

と言えるのだろう。

 

 

今回のテーマの肝は、

この「設定する」と「与える」の狭間にある

プロセスだ。

 

 

ハッキリ言うと、設定をしようがしまいが、どのような内容を設定しようが

それは設定する側の自由である。

 

 

ただし、その「設定した」内容を相手にそのまま「与える」前に、

その内容について相手と合意、認識をすり合わせるプロセスを踏んでいるのか。

 

 

相手もその内容を「課題」として認識している状態であれば何も問題はない。

相手がその内容を「課題」として認識していないのであれば話は別だ。

(勿論、「何故これが課題だと思えないのか」という押し付けはもってのほかだ。)

 

 

自分と相手の双方が「これは課題だ」と合意もしていないのに、

「課題を解決すること」を一方的な目的にして勝手に「設定」してはいないか。

 

 

 

相手の背景を知らずして

「課題設定」「課題解決」など成立し得ないのだ。

 

 

 

僕は、感じていることはそのまま伝える方が良いと感じている。

 

 

 

そして、相手が感じていることをそのまま聞いた方が良いとも感じている。

 

 

・・・・・・・・

 

 

最後にひとつだけ、以上の話に関連した質問をば。

 

 

 

 

今現在、学校に通わない選択をしている中高生に対し、

「一つだけ質問をしても良いですよ」

と言われたら、あなたは何と聞くだろうか。